ご令嬢は真紀の話に耳をかたむける

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 侯爵の娘、エリー・ベルト・フォン・フェルセンは浴室で綿の肌着を脱ぐと、大理石の浴場に入って水を浴び、汗を流した。  白亜のような純白の肌は、水を弾き、長い黒髪を際立たせる。  広い浴室には観葉植物や噴水があった。大浴場の広さだが、エリー以外の人影はない。あるのは女神を模した噴水の彫刻で、エリーの横顔にどこか似ている。  これほど広くする必要はなかったと、エリーはいつも思うのだが、父が疲れを癒すことにこだわった結果だった。父は国のために遠方で仕事をしている。一年に一度会えればよいほうで、手紙での会話がほとんどだった。この浴場も、広々とした空間がかえって空虚に感じられた。  母はエリーが幼い頃に病気で亡くなった。母のいないエリーに、父は様々なプレゼントを贈るのだが、十七歳を迎えたエリーにとっては有難迷惑になっている。いまエリーが心から欲しい物は、防具や剣、鐙だ。まるで軍人が欲しがりそうな物で、女性にそぐわない野蛮めいた品ばかりエリーの頭に浮かんでいた。もし父にそんな要求をすれば、きっと不安になって仕事に集中できなくなるだろう。ただでさえ少ない睡眠が、悪夢にうなされるようになるかもしれない。  朝日が天井のステンドグラスから入り、コリント式のアカンサスの葉をアゲハチョウのように彩る。  ふと、そのさきの噴水の水しぶきに目をやると、だれかが映っていることにエリーは気づいた。 「何者だ!」  人影は勝手に左右に動き、自分の姿が反射したものではないことが分かった。 「ここは、フェルセン家の浴場だぞ!」  男勝りのエリーもさすがに胸をはだけた状態で対峙できず、その場でしゃがみ込み、噴水とは逆の方を向いた。その場から逃げなかったのは、どんな者であろうとフェルセン家の敷地に勝手に入る輩は成敗しないといけないと、父ゆずりの負けん気があったからだった。  すると噴水から声が聞こえる。 「もしかして、繋がった……⁉」若くたどたどしい、女の声がまるで舞踏会場のホールで話すように反響して聞こえた。「貴方は……エリー・ベルト・フォン・フェルセンですか?」  女の声は震えていて、動揺しているのが分かった。  エリーは濡れた横髪をかきあげて、噴水の残像に目を凝らす。ステンドグラスの光のように、鮮やかな服を着ている女の子が、女神のように宙に浮いていた。どの市場にもない生地と鮮やかなレース。上流階級の貴族と交流のあるエリーでさえ見たことがなかった。 「お前はいったい何者だ?」  この時代の観念上、裸を見られることは一生だれとも婚約することができなくなることを意味している。政治に関わる家系であれば、なおさらだった。貞操という観念が、武器になる政治の世界に、エリーは身をおいていた。  しかしそんな常識から一歩離れた道を歩むエリーにとって、裸体を見られる怒りよりも好奇心の方が勝っていた。 「も、申し訳ありません。まさか、風呂に繋がるなんて……。私は、あなたの本を読んでいる真紀と申します」  水しぶきに浮かぶ影はゆらめくと、どうやら頭を下げたようだった。 「真紀……、そんな名は知らん。人間なのか?」 「はい。あなたの世界は私の世界で『本』として存在しているのです。私はその『本』の愛読者で、きっとあなたに伝えたいという私の思いを神様がお聞きになり、こうして私たちを繋ぎ合わせてくれたのだと思います……」  その時、微かに稲妻のような光が噴水から飛び出し、真紀と名乗った亡霊が消えかける。 「え、ウソ! もう切れかかっている⁉ エリー様! 私、あなたの大ファンなんです! その男勝りな強さと、どの姫君より美しく整った顔! 本では悪女役ですが、私は本当のあなたを知っています」  太陽の光を雲が遮り始め、地面のアゲハチョウは光を弱める。浴場全体が暗くなり、エリーはどこか冷え冷えとした空気を肌に感じた。 「どうしても伝えたいことが――」  エリーは真紀の話に耳をかたむけた。 ***  噴水は光を失い、真紀はもう二度と現れないとエリーは直感した。  私たちの生きている世界が、『本』――。  真紀という亡霊の話を聞いて、不思議な気持ちになった。よく父が、遥か東の国で伝わっているという、この世のものとは思えない生き物が出てくる話を手紙に綴っていた。真紀の消えた噴水をもう一度見ると、彫刻の女神の顔がわずかに頷いたように錯覚した。  エリーが浴室を出ようとすると、ガラス戸が一斉に開いた。  甲冑をきた兵士が五人ほど浴場に押し寄せてきたのだ。  白い大理石は泥まみれの兵士の革靴で茶色に汚され、帷子の錆び鉄の臭いと外気がエリーのもとまで漂ってくる。エリーはすかさず、観葉植物の大きな葉をちぎって、肌を隠すと、帯剣した兵士の背に滑り込む。振り向いた兵士の喉を叩いて横転させた。 「ここをどこだと心得る! フェルセン侯爵の浴場だぞ! ここで斬首されても言い訳は立たぬぞ!」  続く兵士たちは泡を吹いて倒れた兵士をみて、立ち止まった。  一際重厚な兜の兵士が一歩前に出ると、腰元より巻かれた羊皮紙を取り出す。 「我々は第一王子、カルロス様の命令であなたを国外追放するためにきました」  国外追放……エリーは愕然とした。その言葉に心当たりがあった。噴水をみやると、このことを予言した真紀という亡霊の姿はやはりもうない。 「……罪状はなんだ」 「……淫猥な行為により、貴方が魔女であると賢老議会で認定され、国外追放の罰が妥当という判断になりました」  『認定』とは馬鹿らしい。賢老議会には権力者にへつらう、耄碌した老人しかいない。エリーは第一王子カルロスの名前が堂々と出てきたことで、すぐに隠れた意図に気付いた。  カルロスには溺愛する妹がいる。その妹とエリーは同じ学年の士官学校に通っており、同じクラスで学んでいた。  この国は他国と戦争をしており、王や貴族の女性であっても、戦や軍に関する基礎的な知識を学ぶことは、婚姻後に使用人を扱う上で必要な知識だった。そうして、学園では上流階級の女性が集まり一日の大半を過ごす。すると自然に、目には見えない鉄則が暗黙のうちにつくられていた。  エリーは男勝りな性格ゆえに、『慣習』を無視して、王族であるカルロスの妹をフェンシングの試合で完膚なきまで打ち負かし、それ以来カルロスの妹はフェンシングに対してトラウマを持つようになっていた。  侯爵の娘が、王族を倒す。士官学校の長き不文律が、エリーによって崩壊した。  カルロスの妹も負けず嫌いなところがあり、様々な競技や試験でエリーに挑むが、すべて返りうちにするエリー。競争の中で、王族という絶対的な存在に抗うエリーの姿を後押しする者も現れ、学園内でもはやエリーに歯向かうものはいなくなる。  しかし才色兼備なエリーを陰で悪女と嫉妬する者も現れ、あらぬ噂も流れるようになっていったのだった。 ***  エリーはタオル一枚に身をくるみ、街道を歩かされていた。  肌を見せれば婚姻相手はいない。そんな時代に、綿の織物一枚で昼間の市場を馬に引かれ罪人として見せしめにあう。  エリーは気丈に振舞って歩いていたが、父のことを想うと自分のことが情けなくなった。父にはよく、女性らしさについて説教された。  自分が招いた運命なのだろうか、報せを受けた父はきっと仕事どころではなくなるだろう。  学園で最も美しいと言われた黒髪は波をうって、街道の子供が魔女だと指さす。我慢していたものが堰を切ったようにあふれ出してきた。両手を縄で結ばれて馬に引かれているので、頬を伝う涙をきちんと拭うことはできなかった。  一人の兵士に敵国の国境近くまで連れていかれる。町が丘から見えなくなるまで裸足で歩き続けると、馬が停止した。あたりは枯れ木と消し炭が道端に落ちた人気のない場所だった。少し先の戦場に続くだけの道なので、民家も何もない。  馬から兵士が下りると、目が合った。大きく見開いた兵士の黒目は、エリーの姿を焼き付けるよう見続ける。兵士はエリーに近づき、首を掴むと道端に押し倒した。 「……俺の妾にしてやろう」  兵士の荒い息づかいと不潔な臭いが鼻先に近づく。  ――なんでこんなことになったのか。私は何も悪いことはしていないのに……。  地べたに転がった仰向けの体を、兵士は力任せに地面に押し付ける。そしてエリーの裸体を隠す布切れを奪おうとして、胸元に手を伸ばした。  エリーは両手を縛る縄を兵士のクビに巻いて、締め上げる。エリーの胸に注意が向いた一瞬の隙だった。兵士は喉に食い込む縄に手を掛けると、エリーは股間を蹴り上げた。兵士は素っ頓狂な声を出して、石像のように膠着しながら失神した。  兵士が装備していた剣を抜き出し縄を斬ると、手首が赤黒くうっ血している。おさえると、痛みが肩まで上がってきた。チカチカと視界が光り、頭痛がする。頭の中につむじ風が吹いているようだった。ぐるぐると景色が回り、今にも気を失ってしまいそうになる。  ショックなことが立て続けに起きて、精神的に疲弊していた。  そのとき、浴場で出会った真紀の亡霊が、混濁した意識の中で語り掛けてきた。 「……国外追放されても、完全無欠のあなたならきっと、乗り越えられるはずです」  エリーはゆっくりと立ち上がった。 「……フェルセン家の名にかけて……!」  そうつぶやくと、不思議と両掌に血が巡り、力が入った。  倒れている兵士の身ぐるみを剥がし、男物の服や靴を装着すると腰元に剣を携える。エリーの冴え冴えとした切れ長の目は、今しがた歩いてきた道を向いていた。
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