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春。はらはらと桜が流れていた。
流れている、というのはいささか叙情的な表現だと我ながら思うが、その穂赤の湧水が表流し、そして再び伏流するまでのわずか5メートルほどの川とも呼べない短い流れの両側には美しい桜が立ち並んでいる。それが風に吹かれるたび、たくさんの花びらが空に舞って川面に落ちていく。その近辺だけ、真っ暗なはずの世界は薄紫色と化していた。
ここに来るのは通常では難しいのだろう。薮を掻き分け道なき道を進んだ先にある場所だ。人の訪れを拒むように、年々来るのが困難になる。そしてそもそも、桜が咲く季節出なければ、ここに来ることができない。
私は桜の季節になれば、毎日ここを探して散歩に来る。
散歩。
確かにこれは散歩だなと思い返す。目的地はあるものの、そこまでの間は当て所もない道行だ。
ここに来る目的はある。けれどもそれもずいぶん昔の話で、本当にあったことなのか、全てが定かではない。それが真実であると思い起こさせるのは、この不自然な私の体だけなのだ。
あれはまだ私が真実12ほどの年だったころだ。
「おや? 君はどこから来たのかな?」
晴夜と名乗る美しいその人は、突然私の目の前に現れた。その儚さに、一目で心を奪われた。
「どこって、道を歩いて」
そう答えて振り返り、困惑した。歩いてきたはずの道がみつからなかったのだ。
「迷い子か。困ったな、早く帰らねば帰れなくなってしまう」
「帰れなく?」
「ああ。浦島太郎のお話は知っているかな。あの竜宮城と同じで、ここに長くいれば元のところへは帰れなくなってしまう」
竜宮城。
幼少時に寝物語できいたその荒唐無稽な話は、その名の通りの美しい月が揺蕩う夜の下、この美しい人から漏れ出ると、真実のように思われてしまう。
「では人がいるところまで送ってあげようね。おいで」
その人は私に手を伸ばした。けれどもこの手を取れば、またあの場所に戻ってしまう。そう思えば、その手を取ることは躊躇われた。
晴夜は困ったように私を見た。
「帰りたくはないのかい?」
私はその時、確かに頷いたのだと思う。
「けれどもここには、もうすぐ誰もいなくなってしまうんだ」
「どこにいくの?」
「さて、ここではない世界に行くのさ」
まるで答えになっていない。
「どこ」
再びそう尋ねれば、世界がどくんと揺れるようにわなないた。
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