桜散る是

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 全ては夢だったのか。そう思ったけれど、手のひらに小さな饅頭のような塊が残っていた。先程晴夜から受け取ったもの、なのだろうか。  耐えられなくなったら食べるがいい。  一体何に耐えるというのだろう。その時、私は既に全てに耐えられなくなっていた。一体何に。一番は、目の前で出会ったばかりの運命と、その喪失に。  だからやけっぱちに、一思いにそれを飲み込み、そして次に気がついたときには真っ白な部屋の洋風寝具の上だった。身を持ち上げれば、薬の匂いがした。病院、というものなのだろうか。  起き上がって廊下に出れば、見知らぬ女性が駆け寄ってきた。 「よかった。気がついたのね? 大丈夫?」 「あの、ここは」 「ここは神津大学附属病院よ。あなたは穂赤湧水の近くで倒れていたの」  穂赤湧水? それでは結局、あれは全て、夢だったのか。気づかず乾いた息を吐いた。 「あなたのお名前は?」 「名前……」  その時私の頭に浮かんだのは、私が売られたという事実だ。もし名前を正直に言ってしまうと、捕まってしまう。だから咄嗟に浮かんだ名前を告げた。 「晴夜」 「晴夜ちゃんね、名字は?」 「名字? ……わからない」  そして気がつけば、自分の名前がわからなくなっていることに気がついた。窓の外を見れば、桜が散っていた。  女性は私の額に触れ、様子を伺う。 「大丈夫? もう少し休みましょう」  それから私はしばらく入院して、そして穂赤湧水近くの孤児院に入ることになった。なぜなら、世界が私が知っていた頃のものとはすっかり異なっていたからだ。私のいた世界は大正という時代だったけれど、気がついたのは昭和という時代だった。当然ながら私を知る者など誰もいない。晴夜の言った竜宮城という言葉が思い浮かぶ。  私があの桜のところにいたのはほんの短い間だった。なのに、随分と時間が過ぎていったのかもしれない。  そのことは私にとって、とてもちょうどよかった。私は結局、体を売ることからは免れた。そして大凡の不幸からも免れた。私があの桜の中にいた間に何度かの戦争が起きたらしい。それですっかり様子もかわって、だから私はこの世界のことなんて、そもそも知りはしなかった。  つまり私は、多くの人間が亡くなったそれらの不幸によっても死ぬことはなかった。
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