遥かなる桜

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 ふと窓の外を見ると川向こうが淡いピンクに色づいている。  今年もこの季節がやってきた。  付けっぱなしのテレビからは陽気な笑い声が聞こえてくる。皆いつもより浮かれている気がするのは、やはり春だからなのだろうか。  春。出会いと別れの季節。人々が近づき関わり離れそしてまた繋がる、そんな季節。  俺は春が嫌いだ。昔は好きだったのに、と考えて胸がギリッと痛む。かつては毎年見に行っていた桜も今では嫌いになってしまった。  そういえば昔、桜を嫌いになる前、遥香(はるか)に言ったことがあったっけ。 「桜って寂しい花だよな」って。  あのときも遥香は愛らしく笑ってたな。 「どうしてそう思うの?」 「花が咲いてる間は多くの人が見に来るけど、散った途端に見向きされなくなるだろ。」 「私は少し違うふうに思うけど」 「え?」 「確かに大勢の人に出会えるのは春の短い間だけかもしれない。だけど毎年花を咲かせる度にたくさんの笑顔に囲まれる。それってやっぱり幸せなことだよ」 「そうかなー」  遥香と交わした他愛もない会話。そうだ彼女は満開の桜のように笑う人だった。鮮やかな彼女の笑顔を思い出して、また胸がギリッと痛んだ。    遥香は俺の大切な人だ。俺にたくさんの幸福を与えてくれた。掛け替えのない人。ずっと側で笑っていて欲しかった。  でも、彼女はあっと言う間に俺の前からいなくなってしまった。川向こうの桜並木が花見客で賑わい始めた、そんなときに突然起こった事故だった。一緒に桜を見に行こうと話していたのに。約束も共に生きる未来も一瞬にして何もかもが無くなった。  去年の今頃はずっとカーテンを閉めて引きこもってた。届くはずがないのに川向こうから人々の笑い声が聞こえてくるようだった。俺の状況ととかけ離れたその明るさがひどく憎かったんだ。  楽しそうな人々に囲まれ華やかな色を振りまく桜。そして、それを当然として受容する春という季節。  それらを嫌いになるのに時間はかからなかった。 「ふぅー」  少し乱れた心を落ち着かせるため一度深呼吸をする。窓を少し開けると、先週よりも気温が高くなっていることに気が付いた。いつの間にか随分暖かくなったんだな。 「あ」  何気なくテレビの方を見て少し動揺した。映っていたのはすぐ近く、川を渡った先の景色。 『満開の桜が美しいですね。今年も大勢の人で賑わっているようです』  笑顔のリポーターがこちらに語りかけてくる。  ……ああ、そうか。そうだったのか。  不意に納得した。かつて遥香が言っていたことの意味がようやく分かった。  桜は寂しい花なんかじゃない。一度花が散って人が訪れなくなったとしても、一年後には必ず多くの人が会いに来てくれる。それはとても幸せなことだ。  一番寂しいのは、何度春が巡ろうとも誰も会いに来てくれないことだ。どれだけ待てども二度と愛する人は訪れない、そんな俺の方がよっぽど寂しい奴じゃないか。 「……はは」  また胸がギリッと痛んだ。 「遥香、俺はいつまでたっても寂しいよ……」  力が抜けてその場に座り込んだ。 ――――――  どれくらい時間がたったのか。 「………………ん」  いつの間にか眠ってしまったみたいだ。テレビからは夕方のニュースが流れている。ぼんやりとした頭を振って眠気を覚ます。 「夕飯、作らないと」  立ち上がろうとした瞬間。  ふわっ。  優しい風が頬に当たった。  風が来た方向。窓の方を向く。 何かが、見えた。  顔に向かって飛んできたそれを咄嗟に片手でつかんだ。 そこにあったのは、 「花びら?」  桜の花びらだった。 どうやら風にのって大きな川を渡ってきたらしい。 「こんなとこまで飛んできたのか。すげーな」  ふっと笑みがもれる。  あ。  笑ったの久しぶりな気がする。  ピンクのこの花、嫌いになったはずなんだけどな。嫌いなはずのこれを見ても以前より辛くないのは時の流れのおかげだろうか。 「遥香が運んでくれたのか?なんてな」  ぶわっ。 「うおっ」  窓から思い切り風が吹き込んできた。暖かい風だ。 …………うん。 「このままじゃいけないよな……」 分かってるよ。遥香。  深呼吸をする。深い深い呼吸。今入ってきた新鮮な空気を体に取り込むために。 そうだな。俺はちゃんと覚えてる。  桜が舞う中、遥香と並んで歩いた。何てことはない、だけど特別な日常。春だけじゃない。夏にも、秋にも、冬にも、幸せな記憶はたくさんある。  俺にはもう決して訪れることがない日々。けれど愛おしく大切な思い出は無くならない。俺は忘れないから。  小さく胸が痛んだ。それでも。 「大丈夫。少しずつでも俺は前に進む」  寂しさとと共に、少しずつ。  そっと花びらを握りしめる。 「だから、見守っていて」  春が嫌いだった。  君を失ったから。  でも君と出会ったのも春だから。  俺はもう一度春を好きになりたいんだ。 「遥香、ずっと愛してる」  来週は川の向こうへ桜を見に行こう。柔らかい風を肌で感じながら、俺はそう決意した。 ≪完≫
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