桜を嫌いになった日

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「なんで桜が嫌いなんだっけ?」 「え?」 「ほら、前に言ってたじゃない。桜吹雪は嫌いだって。あれ、理由何だったけ?」  桜並木の下を二十年連れ添った妻と二人並んで歩いていると、突然そう聞かれた。  一瞬返事が遅れたが、すぐに妻の方を向いて答えた。 「言っただろ? 毛虫が苦手なんだって」 「ああ、そっか」  妻は頷くと、また涼しげな顔で前を向き歩き出した。  毛虫が出るのは葉桜の季節だ。  満開の桜の下には毛虫はいない。ただ花吹雪が舞っているだけだ。  ただ妻は少しも疑問には思わなかった様子だ。  もちろん毛虫が嫌いなのは事実だ。  だが返事が一瞬遅れたのには理由がある。  私は昔、妻と出会うよりも前のことを思い出していた。  その頃の日本は今よりも遥かに大企業信仰というものが強かった。何せバブル景気の絶頂期。いい大学に入って大企業に入ればそれだけで人生は安泰。入れなければそれだけで負け犬という考え方だった。  私も一生懸命勉強し国立大学を受験したが、残念ながら桜は咲かなかった。  今日と同じような満開の桜並木の下を母と二人、合格発表の結果を見たあとで並んで帰ることになった。  周りには合格に浮かれる親子、友人同士の姿があり、余計に惨めな気持ちにさせられた。 「でも、まあ来年もあるんだし、あんまり気落ちしちゃだめよ」 「来年なんて無理だよ。そんな余裕ないだろ」  我が家は十年前に父を亡くしており、母と二人暮らしだった。地元の小さなスーパーで働きながら、私を高校まで通わせてくれた。この上浪人生活が難しいことくらい分かっていた。 「でもせっかくあんなに成績いいんだし……」  笑顔で言う母に私は苛立ちを覚えた。 「無理だよ。何回やったって。そもそも予備校にだって通わせてもらえないんだから」  予備校に通ったからといって受かるわけでもないし、実際独学で国立大学に合格した友人もいたが、その時、私はただただ八つ当たりをしたかった。  言ってからはっとした。  母が呆然とした顔で私を見たからだ。  まるでとんでもないものを見たかのような顔つきだった。  私は何と言っていいか分からず、先に歩き出した。母が後ろをゆっくりとついてきたが、振り返ることはできなかった。  考えてみれば、桜を嫌いになったのはこの時からだった。  その後、バブルが崩壊しリストラなどという言葉が世間を賑わすようになった。  高校卒業後に入社した会社でいくつかの資格を保持していた私は、その後その資格を活かして自分の会社を起こすまでになった。  ただ、今妻とこうして桜並木を歩いていて、ふと思う。  あの時嫌いになったのは、本当は桜ではなかったのではないかと。 「ねえ。お義母さん、最近どうしてらっしゃるの?」 「え? 突然なんだい?」  私は妻に聞き尋ねた。 「いえね、去年の春に桜の下をお義母さんと歩いていたら、急に泣き出して、あなたに悪いことしたって、貧しい生活をさせて申し訳なかったって言い出したの、なんだかふと思い出しちゃってね」  私は地元に独りで暮らす母の顔を思い出していた。  思い出の中の母は、いつも優しく明るい笑顔だった。 「来週あたり、おふくろのとこに顔を出そうか。子供達も久しぶりに会いたがってるし」  少しだけ声がかすれた。  見上げた桜の景色はあの日と変わらない。ただ、 何故か前ほど桜が嫌いではなくなっている気がした。                      Fin  
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