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 心地いい風が吹いて、桜の花びらがふわっと飛んだ。 それを目で追った私に()の光は(まぶ)しすぎて、思わず目をつぶった。 (まぶた)の裏に映し出される彼の笑顔。 大好きな優しい顔。 私を愛おしそうに見つめる瞳。 名前を呼ぶ柔らかい声。 風になびく髪を押さえて、太陽の温かさを感じてみる。体を預けると彼の腕の中にいるようだ。 「(はる)…」 彼の名を口にしたとたん、全てを思い出した。 目を開けると現実に引き戻される。 彼はもうここにはいない。 3年前の夏、私を置いて()ってしまった。  あの夜、離れがたいほどそばにいたはずなのに、彼は私に何も告げなかった。その理由はいくら考えても思い付かない。私のせいではないとわかっていても、彼の苦しみに気づいてあげられなかった自分を、私は許すことが出来なかった。どんな時も支えてくれた腕の温もりを失って、私は途方に暮れた。 あの日から私は、心の底から笑えなくなった。 どうしようもない喪失感も悲しみも、(いま)だに()えていない。もう枯れたと思っていたのに、また新しい涙が(にじ)んできた。 ざあっとひときわ強い春風が吹いた。 薄桃色の花びらが青空に舞い上がり、雪のように降り注いだ。 あの時と同じだ。 『綺麗だな』 彼の横顔はその景色に負けないくらい綺麗だった。読みかけの文庫本のページがめくられていく。 『ホントだ。春なのに雪が降ってる』 私が近づくと彼はこっちを向いて、私の髪についた花びらを指でつまんだ。私はその手を掴んで口づけた。 『(はる)。誕生日おめでとう』 『ありがとう』 彼は微笑んで私を抱き寄せ、優しくキスをした。 彼の好きなコーヒーの香り。 彼の感触は今もまだ消えずに残っている。指で自分の唇をなぞると、胸の奥がきゅっと強張(こわば)った。 今すぐここに来て 私に触れて 抱きしめて離さないで 彼のいない春なんて嫌い。 あんなに綺麗で大好きだった桜の花さえも、雨と風に早く散ってしまえばいいと思ってしまう。その美しさに一層切なくなってしまうから。 誕生日を迎える今日の主役は、もういないのに。 毎年私は彼の歳を追い越していく。ふたりの時間は止まったままなのに、彼とはどんどん離れていく。 足元で小さな鳴き声がした。 目をやると、黒い子猫が私を見上げている。 いつからいたんだろう。気がつかなかった。 お腹がすいてるのか、私に訴えるように何度も鳴いている。淡いグレーの瞳が、必死にすがりついてくる。 私もこんなふうに 誰かに甘えられたらいいのに 私はしゃがんで子猫の頭をそっと撫でた。喉を鳴らす小さな振動が伝わってくる。 「私ね、陽がいなくなって、嫌いなものが増えたの」  独り言のように子猫に話しかけた。 春も桜も。 独りぼっちの夜も。 ふたりのお気に入りのカフェも。 「嫌いになれないのは、君が初めてだよ」  子猫はまたにゃあと鳴いた。 私は子猫を胸に抱え、気がつくと微笑んでいた。ふかふかの子猫は、彼と同じお日様の匂いがした。
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