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女の子ver.
私は今日もこの場所で絵を描き続ける。いつかあなたに見てもらうために――。
見かける度、あなたはいつも絵を描いていたね。
早朝静かな時間、お昼休み、そして放課後。
だけどあなたの描く絵には何故かいつも人がいなかった。人がたくさんいる風景を書いていてもそこには誰もいなかったね。
だから私はある放課後、少し勇気を出して尋ねてみたんだ。
『ねえ、どうして神崎さんの描く絵には人がいないの?』
『それは人に興味がないからよ』
『興味がない……? じゃあ、好きな人とかもできたことがないの?』
『ないわ。だって私、アロマンティックなの』
あなたはそう言ったね。
当時、それの意味することがわからなかった私は調べてみたけど、どうしてかあまり腑に落ちなかったのを覚えている。
細くて病的に白いあなたの手はそれはとても繊細な風景をたくさん描いていた。優しくてぬくもりを感じるタッチで私はいつまでもあなたの描く絵を見ていたかった。
『ねえ、神崎さん』
『なに?』
放課後、見晴らしのいい高台のベンチにいた彼女に私は話かけてみた。だけど、彼女は驚いた様子ひとつ見せずその目はキャンバスを捉えたままだった。
まるで私がここへ来ることをわかっていたみたい……。
『前に人に興味はないって言っていたけど、嫌いではないんだよね?』
『そう……ね』
ようやくキャンバスから離した目を私へ向けた。
その瞬間、何かが胸を貫いた。私の心臓はその動きを止めしばしその時間に酔い痴れた。
初めてみた彼女の笑顔はそれはこの世のものとは思えないほど美しくて儚くて、哀しいものだった。
そうか……と私は腑に落ちた。
彼女は絵を好き好んで描いているのではない。何か別の理由がそこにはあるのだ。
人が嫌いなのではなく、興味がないと言った理由。自分がアロマンティックだと告白した理由もすべてそこにある気がした。
『神崎さん、もう少しだけあなたの描く絵を隣で見ていてもいい?』
『いいけど。美雨は変わった人ね』
『え! なんで私の名前……』
『だっていつも教室でそう呼ばれているでしょう? 嫌だった?』
『ぜ、全然! むしろ嬉しい……。ねえ、私も神崎さんのこと名前で呼んでもいい?』
次に見せてくれた笑顔はとても――とても可愛らしい少女のものだった。
『っ……』
私は目を奪われた。絵を見たいだなんて言っておきながら、彼女から全然目が離せない。離したくない。
まるで一分一秒、過ぎゆく時間を惜しむかのように私はその光景を脳裏に焼き付けた。もう一生忘れないようにと。
『あのね、幸』
いつもの高台にいた彼女に私は話しかけた。
『今日、幸にお願いがあって……』
彼女は手の動きを止めると静かにこちらを向いた。
『私の……私の絵を、幸に描いてほしいのっ……』
頑なに人を描かないあなたにこんなお願い、きっと断られてしまうと思ったのに。
『今日、思い詰めた顔をしていたのはそのせいだったの?』
なんて、どうってことのないようにあなたは破顔したね。
『え、いいの? こんなお願い、私幸のこと……すごく困らせてしまうかもしれないって思って……』
『構わないわ。私も初めて描く人は、美雨がいいと思っていたの』
『嬉しい!』
絵はもちろんすぐには完成しなくて、初めて人を描くからと彼女もいつも以上に真剣な眼差しでキャンバスと――私を見ていた。
動いてはダメと何度も言われたのにあなたのその目で射抜かれる度、私の心臓は知らない強さで脈を打つ。
彼女が欲しい……と。ドクン、ドクンと私の背中でも押すかのようにそれは絶え間なく打ち続けた。
じわりと滲む汗。喉を鳴らせば忽ち体は熱を帯びた。
――幸が……幸が、ほしい。
『美雨』
『……?』
『あまり……そんな目で見ないで。集中できないわ』
『ご、ごめん!』
って、え、今なんて?
どうして幸はそんな顔をしているの?
頬を赤らめて、瞳を潤わせて、恥ずかしげに俯いて。
そんな、まるで恋でもしているかのような――……。
それから間もなくして絵は完成した。
恥ずかしいから絵は帰ってからひとりで見て、と彼女は言った。帰り道我慢するのが大変だったけど、その分楽しみが増した。
『!』
部屋につくなり目にしたキャンバス。
息が止まるかと思った。そこには見慣れたはずの自分がいるはずなのに。先ほど見た神崎幸のように、頬を赤らめ、瞳を潤わせ、まるで……まるで恋をしているかのような少女がそこにはいた。
それは紛れもない“私”だった。
『っ……』
その絵はとても繊細で美しく、実物の私なんかよりも遥かにずっと可愛らしい少女がそこにはいた。
自分はこんな風に彼女の目に写っていたんだと胸が締め付けられるような思いで、その日私は涙が止まらなかった――。
あの絵は今もまだ部屋に大事に飾ってある。毎日掃除もして、変わらずあの日のままの輝きを放っている。
今でもずっと大切な私の宝物。
だけど私は、この絵のお礼をまだあなたに言えていない。
時々学校へ来てはひとりで絵を描いていたあなた。
きっと思い出がほしかったんだよね。
“私、アロマンティックなの”なんて人を遠ざけていたけれど、あれも自分が長く生きられないことをあなたはわかっていたから、予防線を張っていたんだよね。
本当はどこかで気づいていた。認めたくなくて、だけど受け入れないといけなくて。
だから私はあの日、あなたに“自分の絵を描いてほしい”なんて、お願いをしたんだ。あなたを困らせるだけだとわかっていながら。
だけど、それはあなたも同じだった。
もう時間がないと知っていたから、だから私のその願いを聞き入れてくれた。
――ねえ、そうだよね? 幸。
きっとあの頃、私たちは同じ気持ちだったのだと、そう信じて――。
(終)
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