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「絶景かな、絶景かな。春の宵は価千ギーンというが小せえ。この春に咲く秋花は十万、いや百万ギーンか」
ここは四季に恵まれた豊国、シャカヒにあるテンプルの山門である。この国はいま天下の大泥棒と称される「イクシカヴァ・ゴヴェモヌ」の噂で持ちきりである。
近年急激にシャカヒが発展した影には国王「サルハ・ゲネズミ」の怪腕が大きいのだが、その影で犠牲になった民の存在やサルハが国の混乱に乗じて王になった元一将校にすぎないことで民衆には政治不満が溜まっていた。
そんな中、イクシカヴァが狙うのはすべて国の関係者であるため、彼は一部では英雄視されていた。
「おや?」
菊を左手に持ちつつ一人酒に興じていたイクシカヴァだったのだが、彼の前に一羽の鷹がやって来た。捕まえたいが、左手が塞がって動けないなと思っていた彼に応じるように、鷹は四つん這いな菊の背に止まる。
「な、なんだって」
不思議に思ったイクシカヴァだが、鷹の足に括りついていた手紙に気づいたことで、「誰かが俺に手紙を届けるために寄越したのか」と解釈し、その手紙を開いた。
そしてその内容に彼は不粋な声をあげてしまった。
「(モルゴンのサグワドルジ王が俺の父で、しかもシャカヒ軍に殺されただと?!)」
元からイクシカヴァは養父シバターの敵としてサルハのことを恨んでいた。泥棒家業もサルハの側近から力を奪いつつ、蜂起の下準備として始めたくらいである。
大泥棒としての名声に酔っていないかと言われれば否定はできないが、イクシカヴァにとって泥棒家業よりもサルハ殺しは大事なことなのだ。
そんな彼は実父までもサルハの手で殺されたと知ったことで、思わず左手を握りしめた。菊が漏らす鳴き声は、嗚咽なのか随喜なのか。
「石川や、浜の真砂は尽きるとも」
「やや?!」
「世に盗人の種は尽きまじ」
その鳴き声が止まると、菊は唐突に歌を読み出した。
冒頭の「石川」を自分の名かと思ったイクシカヴァはつい合いの手を入れる。そして続ける下の句を含めた歌の意味に、「この男はただの菊ではないな」と怪しんで、イクシカヴァは酒瓶を構えた。
注ぎ口が逆さなったことで溢れる酒が菊の背に滴る。
まさか菊に扮した刺客かと思いつつも、腕一本でも余裕のフィストな彼の菊門は捨てがたく、イクシカヴァは戸惑いを見せた。
「今度はリバで」
結局、イクシカヴァは菊の正体を探ることも危害を加えることもできなかった。
そして日が落ちて別れる際、再開を約束する菊がビリビリと顔の皮を剥いで立ち去る様子にようやく彼は菊の正体を見た。
「まったく、容易には食えねえ敵だ」
それは宿敵のサルハだったのだ。あれだけ殺意を持つ相手だったのに、顔の偽装と見事な菊門だけで誤魔化されていた自分の観察眼には自嘲しかない。
去っていくサルハの後ろ姿は服こそ着ているが先程と同じである。イクシカヴァはやけくそ混じりに「絶景かな」と言うより他になかった。
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