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朝日にまじって弱い雨が降っていた。白い光とともに落ちてくる水滴は細雨と呼ぶほどのものですらなく、ほとんど降っていないようでもあったが、それでも、少し、わたしたちを湿らせた。
彼といると、いつも雨が降る。わたしの隣を歩く彼は、道の左右に広がる草原に目を走らせて、ただそれだけで楽しそうだった。あまり伸びることのないヒゲのそり残りがある口元が微笑んでいる。
いや、そうじゃなかったと、わたしは思い直す。雨の日に起きた出来事が強く印象に残っているんだ。
「あ、菜の花が咲いてる」
群生している野草にわたしは目をとめた。鮮やかな黄色が小川のようだ。
「天ぷらにするとうまいんですな」
彼は荷物を持つ手を替えて、わたしの手を取った。
「あ、テントウムシ」
わたしが、また言うと、
「天ぷらにするとうまいんですな」
「また、バカなこと、言ってら」
わたしは彼の手を強く握った。
他愛のないことを言い合って歩いているうちに小高い丘の上まで来ていて、見晴らしもよかったから、少し早いけど、この場所を今日のゴールにした。
彼は赤いギンガムチェックのレジャーシートを広げ、わたしはお弁当を広げた。わたしのつくった卵焼きや彼の握ったおにぎりが、ぎゅっとつまった、いいお弁当だ。まだ暗いうちからつくり始めたもので、つくっているときには眠たくて、何か出来合いのものを買うことにすればよかったとも思ったが、やっぱり、
「いやあ、がんばってつくってよかったね」
同じことを考えていたのか、彼が朗らかに言った。
おにぎりに手を伸ばす。湿ったノリのかおりが口内に広がった。塩気が舌に触れると、歩き疲れたからだの中に染み渡っていくようで心地いい。砂糖と油をよく吸った油揚げと小松菜のおひたし、ニンジンのきんぴらは春の甘さ、チーズの入った卵焼き、それに、
「これ、この、じゃこと白ごまのおにぎり、うんまいねえ」
わたしが興奮して言うと、彼は大まじめな顔で言った。
「ねえ、おれたち、結婚しようか」
あまりにも驚いたので、ゆっくりとおにぎりを咀嚼して、飲み込み、ついでに水筒のほうじ茶も飲んだ後で、あ、思い出した。
わたしのまぶたは熱を帯びて、目に、涙が溜まっていくのを感じた。
その夜は台風でも来ていたのか、大雨の夜だった。
まだ、わたしたちは付き合ってすらいなかった。どこか、ファミレスに入って、ドリンクバーで時間をつぶしていたときの他愛のない会話だった。
「暖かい春の日に、ピクニックでもしてさ、二人でせっせとつくったお弁当を食べながら、そんな平和のど真ん中でプロポーズされてみたいな」
わたしはたぶん酔っていて、思いつくまま、上機嫌でしゃべり続けていた。
「きみはロマンチストだね」
そう言って笑っていた彼が、今、目の前で笑っている。
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