二摘目

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 久しぶりに聞く芳昭の声は、記憶の中よりもずっと穏やかで、大人びて聞こえた。  俺は雨水のことを器用に避けながら、休養になった話をした。 『アハハ!まあそういうこともあるでしょ』 「そういうことって……メンタルよ?けっこう重大インシデントじゃない?」 『まあね。大変だと思うけどさ。気をつけなよ、まだ元気だと思って油断するとすぐにどん底がくるぞ。――それより、結構びっくりしたんだけど。』 「俺だって、まさか休養になるとは思わなかったよ……」 『ちがうちがう。いや、それもビックリだけどさ。冬尽から電話来るなんて思わなくって。私用の携帯に電話くれたの、初めてじゃない?』 「まぁ、」  言われてみればそうである。芳昭が会社にいた頃は、メールやチャットで仕事に必要なことは話せたし、こういうプライベートな話だって、誰かがセッティングした飲み会とか、たまに彼から誘われる昼食について行けばよかった。  芳昭だけでない、俺は今まで友人に電話をかけるということをほとんどしてこなかった。雅也だって、向こうから勝手にかけてくるだけで、俺からかけたことは一度たりともなかった。 『俺、お前に退職のことも話さなかったし、それで愛想尽かされたかと思ったよ』  俺は反射的に息を呑んだ。 『聞かないの?』 「何が、」 『なんで辞めること事前に言ってくれなかったの、とか』 「……、」  聞けるわけがないというのを了承した上で聞いているに違いなかった。芳昭はそういうやつだった。何も言っていないのにすべてを見通しているような、野生と知性のまじった鋭い目を持っていた。彼自身は、隠すこととさらけだすことの両面を器用に使い分けているというのに。 『なんてね。まあ誰にも言う気はなかったしね。冷たいと思われるかもしれないけどさ。冬尽も、おんなじ状況になったらそうするだろうよ。表面的に、それなりに仲良く付き合っとくのが一番でさ、本当のことは誰にも言わないの』  彼のその鋭さに、自分の嫌なところを暴かれた気がした。 「そんなこと、」 『そんなことあるある。……別に責めてるわけじゃないよ。同期はみんなそうだった。仲良しは見せかけで全部政治的だった。そういうのも悪くはないけどね。俺もそれに倣っただけ。  そしたら、急にお前から電話かかってくるじゃん? しかも仕事関係ない、個人的な話でさ。びっくり。』 「……なんかごめん、」 『だから、責めてないってば。嬉しいよ、電話くれたこと。俺自身、お前から電話もらって嬉しいって思ったのも、なんか意外。発見だったわ』  芳昭が電話越しに笑う。嫌味のない、明るい笑いだった。その声は、俺の中になにか温かなものを広げていった心地がした。 『で、どうすんの、一ヶ月』 「どう……しようかな。何も考えてない。社会人になってから、そんなに長い休暇は取ったことがなかったし。どうしたらいいと思う?」 『聞くなよ、』  自分でも変な質問をしたことはわかっている。いつもならこんなことは聞かない。ただ、今日はなんだか、そういうとりとめのない話がしたかった。 『趣味とかは、』 「あったら苦労しないよ、」 『アハハ。まあ確かに、お前無趣味っていうか、ハマるんだけどすぐ飽きて、短いブームを局所的に繰り返してたよな。ファッション趣味っていうかさ。  あ、そうだ。あれは?筋トレ。昔ハマってた筋トレユーチューバーいたろ、』 「あー……、」  筋トレ。  そういえばそんなこともあった。動画サイトでパーソナルトレーナーの筋トレ動画を貪るように視聴しては同じようにトレーニングしていたことがあった。  が、数年前のことだ。芳昭の言う通り、長続きしなかったのはそれが単なるファッションだったからだろう。世間でいいと言われるものをやれば、それなりに世間について行けるのだと思っていた。  そのときはジムの会員にもなったが、その後、  その後――? 「やば……俺ジム退会してなかった」  いつか解約せねばと思いながら、もう何年放っておいただろうか? 月額五千いかない程度のコースだったし、思い出したように数ヶ月に一度利用していたので、何となくズルズルと会員を抜け出せないまま今日に至る。  しかしこれは好機かも知れない。 「今月行き倒してから解約するかなぁ。あとは……」 『いいじゃん。今はジム行くことだけ考えなよ。そうしてるうちになんか思いつくんじゃない』 「……そういうもんかね、」 『そうだよ。最初からあれこれ考えちゃ、疲れるよ。スモールスタートって、仕事でもよく言ってたろ』 「そうだな、」  俺たちは互いに笑い声だけをやりとりし、そこでしばらく黙ったあと、俺の口がごく自然に動き出した。 「お前はさ、今何してんの、」  いつもなら、ただの会話のつなぎに聞くことだったが、今夜は本当に、素直にそれが知りたかった。 『俺? 俺は知り合いに紹介してもらって、飯屋手伝ってる。超〜皿洗ってるの』 「皿?」  飲食店というのは本当だったらしい。雅也の言葉が脳裏にちらつく。 『食洗機使えない皿とかあってさぁ。手、ボロボロよ。でもまかない旨くて最高。』 「そう……なんだ、」 『いいよ、どうせ雅也あたりからなんか聞いたんだろ? あいつ耳早いからな。なんとでも思えばいいよ。俺は楽しいよ。前からやってみたかったんだ。仲のいい知り合いに飲食の業界の勉強したいって言ったら、この店紹介してくれてさ。で、いくらか勉強したら独立するつもり。』  それから芳昭はひとしきり、独立の夢について話してくれた。  もうずっと付き合いのある、大切な人がいるということ。その人が、地方で素晴らしい料亭を営んでいて、地方ならではの強みと弱みがあり、時折弱みが酷く邪魔をするということ。芳昭はそういう境遇にある店のためのコンサルティングとPRの事業をやりたいらしい。  俺がさっき聞かなければ、おそらく一生知らなかった。 『その人には愛が重いって笑われたけどね、』  彼は可笑しそうに笑った。 「付き合ってるの?」 『たぶんね。はっきりはしてない。でもいいんだ。俺が役に立ちたいだけ。……なーんか、変な感じだな』 「何が?」 『冬尽と、こういうこと喋ってるの。』  それは俺も思った。互いの近況を話し合うことはよくあったが、その先に何がしたいとか、何を大切にしているかなんて、聞いたことはなかった。 『俺さぁ、お前もっとヘタレだと思ってたわ。まわりに調子合わせてさ、弱みとか悩みだって、話のタネぐらいにしか思ってなかったろ。誰にとっても都合のいいやつだったし、お前もそれでいいみたいな顔して。でもなんか、今日は違うね。』 「そうか……?」 『そうだよ。なんかあった? 身の回りの変化とかさ、出会いとか、』  雨水の顔が浮かんだ。  芳昭がそういうのなら、俺は変わったのだろうか。  雨水がいなければ芳昭に電話をかけることもなかった。  俺を休養に追い込んだのも雨水だが。 「どうかな……」  笑って誤魔化しながら、また話をしようと約束して電話を切った。  部屋に戻ると、置きっぱなしのビールはすっかりぬるくなっていたので、シンクに流してしまった。左腕は今夜もなんともない。  雨水はもう眠っているだろうか。
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