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ハウスは収穫を今か今かと待つ真っ赤なカーネーションで海のようになっていた。
「……冬尽くん。」
雨水に促され、その海の中を歩いていく。
中心で止まると雨水は振り向き、いつものようにその指を折り曲げようとしたが、途中で静電気でも起きたかのようにフッと手を開いた。
「どうかした?」
「いや……なんていうか。冬尽くん、身体はだいじょうぶ? フラフラしたりとか、苦しくはない?」
「多少フラフラするけど、別に平気、」
「そう。」
なんだかすっきりしない返事だった。
「なに?」
「いや、別に。」
俺はなんとなく、もう一歩踏み込んでみた。
「別に、二人だから言ってもいいんじゃない? 雨水さん、何か気になるの?」
「……気になるってわけじゃない。ただ、三回目にしては元気だなと思っただけ。もちろん加減はしてるけど……今までの人たちはみんな、もう少し弱ってたから、」
雨水の眠そうな表情に、ほんの少しだけ狼狽の色が見えたように思えた。
「三回で?」
「人にもよるし、加減にもよるけど……」
「はぁ、」
大体三回でフラフラとしはじめ、そこから四回目にいくまでに大抵は医者に運ばれるらしい。まあ俺も二回目で運ばれた身である。そこから仕事を休んで驚きの回復を見せたが。父なんかはだいぶ加減されたようで、そのぶん雨水が弱ることになったとのことだ。
宿主と自己との体力のバランスの舵取りは、案外繊細で難しいようだ。
九来里に来る前から、幾度となく失敗と調整を繰り返してきたのだという。
「今のところの黄金比は、三回思い切り吸って、別のところへ逃げる、ってところ。あんまり長いと、お互いに良くないんだ。情がうつって、ずっと留まろうとしてしまう」
「留まるのは良くないの?」
「そうだよ。」
何が良くないのだろうか。ずっといられるなら、それが一番労力が少なくて、いいじゃないか。
問うてみたが、雨水はそれについて明確な答えを避けた。
「ま、いいけど、」
俺は何ともないと再度伝えると、自分から彼の腕をとった。雨水は躊躇いがちに俺を見た。ややあって、いつもの痛みが腕に現れ始めた。
身体に熱と冷気が循環する。
三回で去るということは、ひょっとしてこれが最後なんだろうか。木場花卉園にいるのも、こうして俺と二人きりになるのも。
「……別に、ずっといていいのに」
知らず知らずのうちに、言葉が口をついて出た。雨水はちらりとこちらを見た。
「確かにさ、会社で一度倒れたけど。あ、これはオフレコね」
「おふれこ?」
「他の人に言うなってことだよ……。あのさ、俺、雨水さんがここに来てくれて、良かったと思うんだよね、結果的に。
ほら、倒れたら倒れたで、たくさん休みもらえて、ジムとか行く余裕できたし、自炊とか始めたし、なんか、久しぶりに友達にも電話とかしちゃったし。
多分ずっと……雨水さんにこうやって吸い取られるよりずっと前から、休まなきゃいけなかったんだと思う。いい機会だった。雨水さんがいなきゃ、こうはなってなかったよ。ずっと擦り切れるまで働いてたと思う」
「……そう、」
「だから、気にしないで、もう少しいていいよ」
嘘じゃないよ、と付け加えた。
雨水は、いつもより少し早くに切り上げた。そのまま、何を語るでもなく、俺の隣でずっとじっとしていた。
「ほんとうは」
俺がしびれをきらして作業を始める直前だった。
「ほんとうは、これきりにしようと思ってた。今日でもう、やめようと」
「だから、居てもいいのに。」
「そうじゃない、」
怯えるようにして、首を振る。
「人に寄生するのは、最後にしようと思ったんだ。」
淡々とした口ぶりだった。その割に、重たいことを伝えられた気がした。彼は生きるために寄生しているはずだった。
それをやめるということはつまり、
「死にたいってこと?」
「まあ、おおむね、そう。別に、人間みたいに自殺したりするわけじゃない。ただ、植物に戻って、待とうと思って。」
「待つって、何を」
彼は俯いて押し黙った。
要領を得ない話だった。ただ、彼が何か思い詰めていることだけはよくわかった。
「……なんかよくわかんないけど、困ったら頼ってよ。俺、ホントにしばらくこのままでいいよ。ちょうどいいんだ。俺、体力あるとすぐ仕事しちゃうから、いいブレーキになるっていうか、」
雨水の重たい瞼が、ほんの少しだけ持ち上がった。虚ろな瞳に、一瞬だ清かな光が宿る。
「そう……、」
雨水は俺に背を向け、作業に入ろうとしたが、あっちを向いたり、こっちを向いたりして落ち着かなかった。しばらくそんなことをしていた後、
「冬尽くん、怒らないで聞いてくれるか。」
まっすぐに俺を見つめた。
「今の仕事が一段落したら、ここを離れてきみの家に行きたい」
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