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「じゃあその、雨水さんを狙って追いかけてくる奴らは、今どこにいるの? 近い?」
「……ここ二週間、九来里の里をフラフラしていたのを見た。おとといは木場花卉園のそばで見たから、なにか掴んでるはずだ。あいつら、冬でも夏でも、黒いコートを着てるからすぐわかる」
黒いコート。俺は先月、家族で行った焼肉店でそいつを見たかもしれないと思った。ハラミを焼いていたが。
「ほんとうはもう、逃げるのをやめるつもりだった。きみを吸い尽くしたら、観念して捕まろうと思った。けど、」
チラリ、とこちらをうかがう。
「……きみは、他の人とはすこし違う」
「違う?」
「うまくいえないけど……なんだろうな。お互いに、利害が一致しているというか、うまく補い合っていけるっていうか、」
「ウィン・ウィンってこと?」
「うぃんうぃん、」
雨水はそう繰り返して吹き出した。表情の乏しい彼にしては、やけに可笑しそうな、自然な笑顔だった。語感が面白かったらしい。つられて俺も笑ってしまった。
「もし、十日たってもあいつらが九来里から離れなかったのなら、それはもうそういう運命だと思うしかない。そのときはもう――あきらめるよ」
「あきらめるの、」
せっかくここまで生き延びたのに、たった十日、賭けに出るだけでいいのだろうか。
雨水はゆっくりと立ち上がってベランダの方へ向かっていった。
「……悪いけど、今日はもう眠るよ。長旅で少し疲れたんだ。」
じゃあ俺を吸っていいよ、と言ったが断られた。
喋りたくないことがあるのだろう。
雨水は外へ出て、ベランダで横になると、植木鉢を抱えて目を閉じた。
外で寝たいらしい。
植物のことはよくわからないが、流石にコンクリで直寝はつらいだろうと思って、なにかクッションになるものがないか寝室を探してみた。幸い薄手のブランケットがあったので引っ張り出し、それを持ってベランダに出る。
彼の身体にかける途中でふと、その手の甲の皮膚が乾燥して白樺の樹皮のようになっていることに気がついた。彼の手はもっとしっとりとしていたはずだ。
見間違いかと思って何度がまばたきをする。だが確かにに雨水の皮膚は乾いて所々がひび割れ、しかも、その隙間から何か白いものががチラチラと動いていた。
虫?
そう思ったときにはもう、無数の細い触手のようなものが皮膚の割れ目から顔を出し、ゆっくりと伸びはじめていた。
それは生き物のようにうねうねと動きまわり、何かを探すようにして彼の身体の周りをさまよいながら、やがて植木鉢の植物を見つけ出すと、つぎつぎにその幹や根に絡みついていった。
呆気にとられる俺に、雨水は目を閉じたまま、優しく言った。
「……根だよ。実体のある根だ。植物の姿のときはこうして寄生するんだ。これで身体を休めておくから、冬尽くんは普段通り過ごしてくれ。ここにいる間、なるべくきみからは吸い取ることを控えようと思う。迷惑はかけない。だいじょうぶだから、そっとしておいてくれ……、」
言葉の一つ一つが、深い淵で夢を見ているような響きを持っていた。
しばらくして根はすっかり動かなくなった。ベランダの片隅に、細い紐を身体全体に巻き付けたような、つくりかけの繭に似たものが完成した。
近づいてその顔を覗く。無数の根の向こうで、彼は幼い顔をして眠っていた。彼の髪の毛には、赤紫色のビーズみたいな花がいくつか咲いている。これが彼の花。
俺はどうしようか迷って、寝室のベッドではなく、雨水がよく見えるリビングのソファで眠ることにした。
部屋の電気を落とす。
ベランダで、月の光に照らされて彼の根が白くぼうっと浮かび上がる。
美しく、不可解だと思った。ずっと見ていたかった。
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