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雨水が来て三日間、追手らしき影もなく、比較的穏やかな日々が続いたが、彼は怖がってマンションの敷地の外に出ようとはしなかった。
俺がジムに出ている間は、ベランダで鉢植えに絡みつきながら横になっている。よく見ると彼には葉もあり、天気のいい日は光合成もできて丁度良いらしい。
彼は夜も昼もそんな感じで、一緒に暮らしている割に話し相手にはあまりならなかった。夜なんかは俺のほうが退屈したので、暇つぶしに彼を起こしては、飲み物と一緒にベランダに出て身の上話を色々聞いた。
外で飲むと、コーヒーもビールも、不思議と美味く感じられた。
雨水は俺が用意した虫除けキャンドルの火を不思議そうに見つめながら、ぽつぽつと思い出した順に語ってくれた。
五十年前の人々の暮らし。
その間に雨水の寄生したひとびと。
暗いベランダにふたりで横たわり、彼の朴訥とした声が夜風に滲みゆくのをゆっくりと聞いた。
雨水の種には三百年を生きる個体もあるらしく、人間の一年は彼らにとって花びらの落ちるような刹那のうちに消えるらしい。
「――五十年の間、季節がうつろうように街も人も変わっていった。たくさんのことが記憶の海に溶けて、俺の中ではすっかりあいまいで、区別がつかなくなった出来事もある。」
「特別な思い出は? たとえば、記憶に残ってる人とか――」
「特別、か。俺には愛着というものがわからない。だから全ての人は同じように見える。
でも忘れたわけじゃない。すべての人を覚えてるし、いっしょに夜通し映画を見たり、トランプをしたり、学生運動をしてた子に大学に連れて行ってもらったこともちゃんと覚えてる。それから彼らに聞いた遠いふるさとの話、その人の夢、――殺してしまった記憶なんかもね、」
殺した、という言葉を俺は心で反芻した。
その恐ろしい言葉は、彼が語る限り、俺の中では聖なる言葉に聞こえた。
「随分前の話だ。俺は寄生した男のひとを一人死なせてしまったんだよ。」
柔らかく風が吹き、虫除けキャンドルの淡い光が雨水の顔の上でちらつく。俺は彼の次の言葉を待った。
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