87人が本棚に入れています
本棚に追加
「工場で働く純朴な男の子だった。秋の終わり、少し肌寒い日の夜、彼の命を奪った。
その日、その瞬間の、アパートの埃っぽい空気、彼の腕の温み、肌の感触、目の光が消えていくまでその目をずっと見つめていた、その一分一秒がくっきり、残ってる。
俺もまだその頃は若くて、人との上手な距離の取り方が分からなかった。三回吸って逃げる、というところにたどり着けていなくてね。その時は少しずつ吸って、できる限り宿主を変えない生き方を試していたんだ。
その子とは半年間一緒に過ごした。
多分それが良くなかった。
彼は俺に恋をしたと白状した。
知らなかったよ。俺のことを植物だと知っていたし、男だということもわかっていた。なのに、恋をしてくれるというのは一つ、発見だった。
俺にとってはその程度だった。その告白はただの発見の一つに過ぎない。植物には、恋慕の感覚がない――俺の種は雌雄異株だけど、結実は虫任せで、他の個体に恋い焦がれることはないんだ。
けどその子は俺に激しい感情を抱いているようだった。不安、思慕、固執、欲情、恋をすると人間は忙しいね。
彼は、俺にその感情がないことに、ひどく絶望したようだった。
仕事に行かなくなり、毎晩のように酒を飲んで、俺を罵っては責めた。言葉でも、身体でも。――ああ、きみが想像していることとは少し違うかな。確かに殴られることもあったけどね、俺がきみに最初にしたことを覚えてる?あれもその子から教わったんだよ。つまり、そういうことだ。
それが済むと急に弱気になって、すまなかった、ゆるしてくれと謝る。
何日も何日もそれが繰り返された。しまいには殺してほしい、殺してくれ、そう言って縋りついてきた。それがどれほどの苦しみなのか、人間でない俺には知るすべがない。
死ぬほどの苦しみなのかな。冬尽くんはどう思う、」
「よくは――わからないかな。」
俺は少なからず動揺した。殺した、ということよりももっと、彼に人間の恋に相当する感情がないことに対して、また彼が受けた種々の責苦に対して困惑を覚えずにはいられなかった。
雨水は横になったまま、いつものようにふわりと曖昧に笑った。
「俺はその子のこと……薄情だなと思ったりしたけど、薄情なのはきっと俺の方なんだね。人間の心がわからないから。」
「人間でもわかんないよ」
「そう、」
雨水は言葉を探すように少しだけ黙った。
「……冬尽くんも、あの子が――恋に破れた男の子が、何故死にたがっていたのかはわからない?」
「そういう本とか映画は、たくさん見たことがあるけど……」
「じゃあそういう子に、殺してと言われたら殺すかい、」
俺は押し黙った。
静かなため息が聞こえる。
「俺はした。たぶん、人間ならしない。」
「雨水さんは、……後悔してるの、」
「どうなのかな……。
ただずっと、耳にこびりついてる。あの子の言葉……苦しい、助けて、殺して、殺して、殺して、……。
彼は最後にね、泣いてたよ。苦しみでも悲しみでもなくて……喜びですらない。何もない、虚ろな顔に涙だけが筋を描いていた。
あの顔を見て、俺はもう、結局、何も知らないほうがいいんだと思った。
誰とも深く関わらず、何も疑問に思わず、生きるだけの生を生きる。それが、長い間……、この先何十年と生きるこつのような気がして……そうしてそれを今日まで続けてた。そしたら、なんだか一気に疲れた気がした。」
「それで、もうやめようと思ったの。」
「そうさ。」
雨水はそこでようやく、一息つくようにして黙った。
俺はえも言われぬ同情を覚えた。
彼は後悔している。ずっと、殺してしまった人のことを考えている。おそらく、俺を吸っていたときも……何かに祈っているように見えた、その祈りは、殺した彼に向けられているのかもしれない。
立ち上がって雨水の側によると、隣で横になった。もっと近づきたかったが、根が邪魔して、彼自身には触れられない。
「冬尽くん、外で寝るの?夜は寒いよ。部屋に戻りなよ。」
「……いいや。」
「じゃあ、もうちょっとこっちにおいで」
根が少しだけ開き、雨水はその隙間から俺を招き入れた。恐る恐るその中に入って、雨水にピッタリと身体をつけた。彼が俺の背に腕を回す。
温かかった。根の中は風も少なく、思ったより快適だった。
しばらく、彼の呼吸でその身体が動くのをじっと見ていた。彼もまた何も言わなかった。
「……雨水さんは、どうして……俺のところにきたの。」
誰とも深く関わりたくないなら、こんなことする必要はないのに。何が、特別なんだろう。
「たまにはね。……たまには、誰かに愛してほしいんだよ。静かで、穏やかな愛情が欲しい。強欲かな。」
「人間みたいだね」
彼は小さく笑った。
「……俺も、雨水さんの気持ちはわかるかもしれない。ずっと逃げてきた気がするから……。誰かと関わったり、なにかに深く……入り込むこと。ずっと誤魔化しながらやってきた。でも……たまにはこうして、誰かに甘えたい。
俺たちは案外、似た者同士なのかもね、」
俺の背に回された雨水の腕に、力が入る。俺たちは互いに向き合う形で横になり、その顔を見つめた。
そしてどちらからともなく、その唇を吸った。
続けて額を、頬を、髪の生え際を。それは雨水にとって、恋人にするような甘い口づけではなかったはずだ。親猫が仔猫の体を舐めてやるような、無邪気で、親愛に満ちたものだった。
俺にとってはそれ以上の意味があることを悟られてはいけないと思った。彼の唇が自分に触れるたび、彼の舌が肌を舐めるたび、身体中が甘やかな熱に冒され、残酷な気持ちになった。
雨水はそれを求めていない。
最初のコメントを投稿しよう!