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バーカ、冗談だよ、と言うと思って、俺はしばらく黙っていた。が、一向に彼は喋らなかった。俺の言葉を、待っていた。
「……どうしたの、雅也らしくないじゃん、」
動揺が悟られないよう、笑顔で誤魔化そうとした。
「今はそういう誤魔化しはどうでもいいんだよ。なぁ、どうなんだよ。メンタル休職って聞いたぞ。……それ、俺のせいなんだろ。俺が仕事でも休みの日でも好き勝手振り回したせいで、お前を潰したんじゃないのか、」
「……、」
なんと答えていいのか分からなかった。もちろん、彼の問いに対する答えはNOで決まっている。俺が会社を休む羽目になったのは雨水のせいであって、雅也のせいではない。
だが、そんなことよりも雅也が、あの雅也が、そんなふうに考えているなんて知りもしなかった。
自分のせいだって?自分を責めているのか?あの、他人を一ミリも顧みることをしない、自分大好きの雅也が?
その雅也が今、告解を望む信者のように、手を目の前で組んで伏せていることが、信じられなかった。
黙りこくる俺に、彼は大げさに頭を抱えて机に突っ伏した。
「やっぱり、そうなんだな? ……俺だって、わかってるよ。お前がこうやってサシで飲んだり、俺の話に付き合うのが、ただの保身だってことくらい。でも、たとえお前がお前のためにそうしてたって、構わなかった。こんな……自分でもわかってる、こんな性悪のそばに、嘘でもそばにいてくれるやつがいてくれて……救われたと思った。それに甘えて、俺はお前に酷いことを――」
「違うよ、」
どこで否定すればいいかわからないまま、俺はようやくそこで彼の話を止めた。もっと早くに止めても良かったはずなのに、うまく言葉が出てこなかった。
雅也の気持ちを、こんな正直な気持ちを聞いたのは初めてだった。俺はそれ以上は聞いてはいけない気がした。それ以上聞けば、今までと違う関係になってしまいそうだった。
受け取ってはいけない。
誰とも、深く関わりたくないから。
「違うよ、俺が潰れたのは雅也のせいなんかじゃない。色々あったんだ、その、なんていうか、……」
雨水、の名は出せない。
「実家のこととかで……」
「実家……?」
雅也がすがるようにこちらを見る。
「そうだよ、」
「……、」
彼は俯くと、両手で顔を覆ってしばらく沈黙した。
それから、堪えきれないかのように笑い出した。
「ふふ……ふはははは! なんだよ、俺のせいじゃねーのかよ! くそ、心配かけさせやがって、俺の一ヶ月を返せよ!」
大げさに、演技じみた態度で笑い飛ばした。びっくりするほどの変わりようだった。
だが俺には、その嫌味な笑いもただ本心を誤魔化そうとしているようにしか思えなかった。
今しがた見せた彼の素直な心を、必死で覆い隠そうとしている。それは憐れなほどに痛々しい笑いに見えた。
「なんだよくそ、飲むしかねーな。で、何だよ、実家のことって」
彼はその後も酒を飲み続けた。俺の嘘話をいくつも聞き、いつもの上から目線のアドバイスをくれた。俺はそのわかりにくい親切に触れながら、なんだか妙に酒が進んだ。
「そろそろ水か何かはさんどけよ」
雅也が俺の手からグラスを取ろうとしたので、その手を掴み返して止めた。そのまま彼の手の甲を指で引っ掻いて遊ぶ。雅也も厭う気配はなく、俺の好きなようにさせながら、時折探るように俺の目を伺った。
二十二時をまわる頃、ふたりともいい塩梅で酔いながら店を出た。
待っていたエレベーターはすぐには来ず、雅也はしきりに明日が早いことや終わらない案件の愚痴を口にしていた。
やがてエレベータの扉が開き、俺のあとから雅也が乗り込んだ。いつものように、俺が一階のボタンを押す。扉が閉まり、外の喧騒が消えて一つの密室になる。と同時に、雅也は俺の方を向くと、そのまま覆いかぶさり、
唇を重ねてきた。
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