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触れるだけの口づけが、ずっと続いた。
十階から一階まで、永遠のような時間がながれる。
嫌悪も怒りも感じなかった。ただ甘かった。
これでいいのかもしれない。
俺は雨水のことを考えていた。
それから俺に覆い被さる雅也を見て、ああ、代わりになると思った。
雨水の代わりに、雅也に相手をしてもらえばいい。
雅也だって、俺に好意に似たものを寄せている。だからこうして唇を重ねてきたのだ。その気持ちを利用すればいい。きっとうまくいく。
雅也の手が不確かな強さで俺の手に触れる。
簡単なことだ、と思った。その手を握り返し、唇を割って舌を入れてやればいい。
彼はきっとそうしてほしいはずだ。
そうしたら、望み通りにことは進み、雅也は満足するだろうし、俺は雨水の代わりを得られる。
誰も損をしない。誰も傷つかない。
そうだろうか?
本当にそうだろうか?
明らかにそうしたほうが得なはずなのに、俺はその場から一歩も動けず、何も実行に移せなかった。
間の抜けたチャイム音で扉が開く。雑踏と、客引きの声と、どこかのパチンコ屋のBGMが一気になだれ込んできた。俺にはそれが最後通牒のように聞こえた。
雅也は踵を返すと、俺に背を向けたまま、
「寄るとこあったの忘れてたわ。じゃあな、」
といって、そのまま振り返らず、早足で夜の街に消えた。彼がどんな顔をしていたのかわからない。ただその背中はいつもよりもずっと、か細く、小さく見えた。
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