★四摘目

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 一ヶ月の休暇が終わった。  雨水はスーツ姿の俺を物珍しそうに眺めたあと、「素敵だね、行ってらっしゃい」と言って玄関まで見送ってくれた。  実に一ヶ月ぶりの通勤になる。通勤経路を覚えているかどうか不安になったが、情けないほどスムーズに身体はオフィスへ直行した。染みついているとはこういうことを言うのだと思った。  久しぶりに踏み入れるオフィスは眩しかった。休暇前はそんなこと微塵も思いもしなかったが、天井の蛍光灯、背の高い採光窓、それにパソコンの画面があちこちで光っていて、目が眩みそうだった。  たしかに五年通った場所だったのに――まあ何度か配置換えはあったが――それにしてもつい先月まではこの場所に毎日通っていたくせに、なんだか知らない場所に放り込まれたような心地がして、落ち着かなかった。  俺はまっさきに雅也の姿を探した。あんなことがあったので、できれば顔を合わせたくはなかった。見つけ次第目を合わせない作戦に出ようと思ったが、幸い、オフィスに彼の姿はなかった。休暇だろうか。 「お~木場、元気だったか?」  同僚は相変わらずの姿で、温かく俺を迎え入れてくれた。  言葉も、態度も、何もかもがやわらかな気遣いに満ちていた。以前と同じように見せかけてはいるが、以前にはない温かさに満ちている。  わかっている。俺は一度心を病んだか弱い同僚なのだ。腫れ物扱いされないだけまだマシだ。たとえその視線がなまぬるくて居心地が悪くても、きっと元通りにはならない。  慣れるべきだと思った。  上司と今後のことを軽く打ち合わせ、自席に戻って溜まったメールの整理をする。  ほとんどはCCのメールだった。すっかり脇役だ。だがメールだけでもなんとか仕事の流れは終える。  抱えていた案件のメールをある程度見終わったあと、社内向けの通知メールをざっと見た。大抵はただのお知らせである。騒音を伴う工事のお知らせ、カーペット清掃のお知らせ、協力会社からのキャンペーン通知……タイトルで取捨選択を続けていく。  その中でたった一行、〈五月人事異動周知〉のタイトルがなぜか、浮きあがるように俺の目に飛び込んできた。  退職者や異動者の一覧だ。いつもはスルーしていたのだが、芳昭のこともあったので、ひとまず見るだけ見てみようと思った。  通知には雅也の名前があった。  異動分類は〈出向〉。  出向先の会社名に見覚えがある。最近関係会社で出資して作った、新しい企業だ。その海外支社のスタートメンバとして、ベテランの先輩とともにバンコクに渡ったらしい。いわゆる栄転、大抜擢である。聞けばつい三日前、俺と飲んだ翌々日に日本を発ったようだった。  そんな話は、この間の酒の席で、彼から一度も聞かなかった。どうりで朝から姿を見ないわけだ。  こいつも、芳昭と一緒か。  別に、ショックを受ける謂れはどこにもない。  俺は他の誰とも同じように、雅也ともまた表面的な付き合いしかしてこなかった。だから、悲しいとか、なんで言ってくれなかったんだとか、そんなことを思う資格はどこにもなかった。  仕方のないことじゃないか。  そういう関係を望んだのは俺だ。  俺は大丈夫だ。  心のなかで自分に言い聞かせ、力強く励ます。 「――木場くん、大丈夫? なにか困ったことない?」  隣のデスクの先輩が、優しげな笑顔で俺を見ていた。 「大丈夫っすよ。メールの量に辟易してますけど」  そういう軽口を叩いておけばいい。今まで通り、俺は誰とも深く関わることはない。  かつて芳昭が退社したときに感じた虚しさも、雅也が何も言ってくれなかった寂しさも、誤魔化していけばいい。  理屈で誤魔化して、保身で流して、他人に合わせて来続けたことたちの、何ひとつも間違ってはいないはずだった。 「まあー、堀田くんいないから、寂しいよね。  彼もさ、一ヶ月けっこう参ってたよ。だいぶ木場くんと仲良かったし、いいコンビだったもんねぇ。バンコク行きが決まったときも、なんとか木場くんを連れてけないかって。でも木場くんにも無理させたくないし、まあ駄目だねって結論になっちゃった。  まぁ、あの子なら一人でどこでいっても逞しくやってけるでしょ。今頃ゆったりしたシャツとか着て、クライアントにあーだこーだ言ってんじゃない」  俺は乾いた笑いを返すので精一杯だった。  その日はともかく機械的にメールを追い、仕事を追い、明日から何をするかの整理に没頭した。同僚に誘われればお茶に行き、ランチも共にした。ここで生き残るために、抜けた根を再度貼り直す必要があった。  そういうことに専念して、こみ上げる思いをなんとかよそに追いやった。気を抜くとすぐに泣いてしまいそうだった。  別に、ほんとに適応障害だったわけじゃない。過労は雨水のせいだ。  ただ、俺は無性に誰かとこの気持ちを共有したくなった。今までのように表面を取り繕うような関係では足りなかった。もっと深く、誰かと繋がりたかった。
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