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定時で上がって、家路についた。
携帯には母からメッセージが入っていた。明日、雨水の休暇が終わり、再び九来里に戻る運びになっていた。かねてより調べてあった電車の時間を、母には返信しておいた。
夕陽に陰る公園のそばを通り抜ける。青臭い匂いの中に、どこか濡れた砂の匂いが混じっていたので振り返ってみると、すでに背後から分厚い雲が迫っていた。今夜は雨予報だった。
マンションの部屋の扉を開け、ただいまをいう。夕闇に沈むベランダで、動く影があった。
雨水はゆっくりと立ち上がり、窓を開けて部屋に戻った。
「……冬尽くん。おかえり。会社、どうだった?」
カーテンが揺れ、雨水の曖昧な笑顔をところどころに隠していく。
「雨水さん、」
その次の言葉が出てこなかった。
気持ちばかりが膨れ上がって、どこから言葉にしていいのか分からなかった。
リビングの入り口でうずくまる。
「冬尽くん?」
彼の足音が聞こえる。すぐそばまで歩み寄り、そのまま、俺の前でしゃがみこんだ。
「どうしたの。」
俺の顔を覗き込もうとしているらしい。俺はうつむいたまま、わざと冷たく雨水を払い除けた。
雨水がピタリと止まる。
「なんで泣いているの」
「……、」
彼はいたく狼狽しているようだった。
もっと困らせてやりたかった。そうすることでようやく、今までと違う関係になれるような気がした。
ゆっくりと彼の胸にもたれかかる。彼の胸元からは、いつもの甘い樹木の香りがした。
雨水が戸惑いながら俺の背にそっと腕をまわす。
「泣かないで。」
俺は顔を上げ、その目を見つめながら、指を差し出して雨水の唇に触れた。
「冬尽くん……」
雨水が何か言おうとする前に、その唇に口づけた。
雨水は最初、その口づけを従順に受け入れていた。この間の続きだと思っているのかもしれない。だが唇を割り、舌を入れると、そこでようやく彼は俺の思惑に気づいたらしかった。ピタリと口が止まり、身体をこわばらせ、ややあって俺を押し返そうとした。
俺はそれを受け流しながら逆に雨水を床に押し倒し、その上に乗った。
彼の細い髪が床に広がり、困惑した眼差しがこちらを見つめ返す。
あまりに美しく、倒錯した光景に、俺は言葉を忘れてもう一度口づけた。唇に、首筋に、胸元に。彼の肌に鼻を寄せるたび、全身から芳しい香りを感じた。黒い男たちを誘い出す香りだ。
そいつらには渡したくない。
自分だけのものにしたい。
「……俺、できないよ。」
彼のみぞおちを撫で、臍から下へ指を滑り込ませて、彼自身に直に触れる。そこは柔らかいままだった。彼の言う通り、身体は飾りで、なんの機能も持たないのだろう。
「おねがい、離して……」
雨水の声に一言も答えないまま、俺は指で彼を愛撫し、それに倦むと足の間に顔を寄せ、口で吸った。快楽のない彼にとって、それはきっと不快な感触に違いなかった。
舐めながら指を後ろへと挿し入れると、引きつったような息の音がする。
それが官能的に聞こえてしまったあたり、俺はもう引き返せないのだと思った。
「やめて、」
俺は繰り返そうとしている。雨水に永遠の後悔を植え付けた男と、同じことを。それがどれだけ残酷なことなのか、互いによくわかっているはずなのに。
「雨水さん、……口、開けて」
身体を起こし、彼の顔を跨ぐようにして膝をつくと、今度は自分のものを雨水の唇にあてがって、圧し入れた。頭を掴んで腰を揺する。雨水は苦しそうにして咥えながら生理的な涙を流した。
その光景にくらくらしてしまいそうだった。濡れた腔内が心地よい。今は、今だけは、彼は俺のものだ。
これが、
これが俺の望む深いつながり、気持ちの共有なのだろうか。
こんなの間違っている。
やめたいという気持ちと、手に入らないのならこのまま壊したいという気持ちが拮抗し、気持ち悪いぐらいに腹の底を這いずり回った。
口から引き抜き、彼の腰を乱暴に抱えて、さっき指を挿し入れたその入り口に自分自身の先端をあてがう。
もうやめよう、こんなこと、
「俺、きっとおかしいんだ。……足りないんだよ、なにか、みんなが当たり前に持っているものが。雨水さんならわかるでしょ。ねぇ、助けてよ」
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