87人が本棚に入れています
本棚に追加
目を開けると、藍色の闇に染まった天井がそこにあった。
俺はベッドの上に仰向けになっていた。
まだ、夜は明けていない。
「……雨水さん?」
雨水の返事はない。
外で雨音だけが小さくさあさあと鳴っている。
シーツは冷たく、昨日俺を包んだ根も欠片も残っていない。彼は隣にはおらず、ただくしゃくしゃになったシーツだけが残っていた。
ベッドを降りて、扉の開いたままのリビングを探す。キッチン、風呂、トイレ、念のため、クローゼット。
どこに呼びかけても返事はなく、彼の持ち物だったバックパックや歯ブラシもそっくり消えていた。
ただベランダの植木鉢だけは、昨日のとおりにそこにあった。
俺はベランダに出ようとしてガラス戸に手をかけた。そのとき、ようやく自分の異変に気づいた。左腕が痛い。雨水に食われる痛みとはまた違う痛みだった。
左腕を見て、目眩がした。
左肘に、大きな傷があった。それは腕をぐるりと囲むように入っていて、ちょうど、肘から下を切断して、またくっつけたような形をしていた。
その傷を視認した途端、一気に痛みが押し寄せた。焼きごてを押し付けられているような激しい痛みだった。
それだけではない。子供の頃の怪我で幾分歪んでいた左手の中指が、綺麗にまっすぐになっていた。
激しく痛むこの左腕は、明らかに俺の腕ではない。
俺の腕はこんなに美しい指をしていない。骨のかたちはこんなにはっきりしていないし、肌だってこんなに白くはない。怪我のない右手と合わせてみると違いは明らかだった。骨格、肌の質感、爪の形の一つ一つが、左右で全く違っていた。
それは紛うことなく、雨水の左腕だった。
俺の左腕が切り落とされ、そこに彼の左腕が継ぎ足されている。すでに癒着しかけていて、継ぎ目に当たる傷口では蛆虫のような白い生き物が――恐らく雨水の根の生き残りが意志をもって忙しなく動き回り、腕と腕をせっせと縫合し続けていた。
切り落としたはずの俺の腕は、部屋のどこにもなかった。雨水が持っていったのかもしれない。
あるいは、彼の腕につなぎ直したか。
接ぎ木。にわかには信じがたいが、雨水は彼が大切にしていたあの植木鉢と同じ手法で、俺と彼自身の左腕を交換し、互いに植え付けあったらしかった。
俺はしばらく呆然とその左腕を見つめていた。滴る血がフローリングに広がっていく。
「雨水さん。」
返事が来ないことはわかっていた。
「雨水さん、……」
もう一度つぶやき、その場に座り込んだ。
彼は消えた。どこへ?
今、どこにいる?
動けないまま時間を浪費した。朝日が登る頃には指が動くようになっていたので、なんとか会社には連絡を入れた。病み上がりを考慮されたのか、理由を深くは聞かれなかった。
昼過ぎに電話がなる。母だ。緊迫した声だった。
「冬尽、雨水くん知らない? まだ九来里の駅につかないの……電話も繋がらない。今日よね? 今日こっちに帰る約束だったわよね。ちゃんと新横浜まで見送った? 何時の電車だったの?」
俺は雨水が今日忽然といなくなったことを淡々と打ち明けた。電話の向こうで、母の息を呑む音がした。
どうすればいいのかまるで分からなかった。
わからないまま半日が過ぎ、一日が過ぎた。
さすがに二日も出社しないわけにはいかなかった。俺は痛み止めを飲むとスーツに着替え、普段どおりを装って会社に行った。腕のことがバレないか、怖かった。
人に紛れて生きるというのはこういう気分なのかもしれない。
それから以前と同じ日々が繰り返された。
彼に出会う前と、同じ日々。
考えてみれば雨水に出会ってからたった三ヶ月しか経っていなかった。長い人生の中のたった三ヶ月前。俺の記憶の殆どは雨水のいない記憶だった。
それなのに、彼に対する喪失感は俺を実態のない幽霊のような心地にした。彼が戻らない限り俺は空っぽだ。
半年以上そういう日を過ごした。俺にとってすべての日々は〈雨水がいない〉という点で同じ日々だった。
俺は何かを埋めるように、様々な手段で相手を見つけては寝るということを、男女問わず繰り返した。残念ながらそれは暇つぶし以外の何にもならなかった。ならなかったが、ないよりはマシだった。
幸いというべきか、雅也はバンコクにいる間全く連絡をよこす気配はなかった。俺はもう雅也に嘘をつくために実家に帰る必要はなかった。
父母の健康状態を確認するためにも帰らないわけには行かなかったが、それは月一から数ヶ月に一度程度に落ち込んだ。
やがて木場花卉園は俺にとって遠い存在になっていく。
最初のコメントを投稿しよう!