★五摘目

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★五摘目

 雨水が消えてから一年が経とうとする頃だった。  ゴールデンウィークに、雅也が一時帰国するらしい。同僚からそう聞いた。  すでに仲の良い数人の同期は飲む約束を取り付けているようだったが、俺はそこには呼ばれなかった。  かわりに、ふたりで飯を食いたい、と雅也から個別に連絡があった。  雅也が指定したのはゴールデンウィークの終わりだった。俺は例によって帰省を口実に断った。が、「じゃあそっちに行くよ」と彼は言った。  電話を切ってしばらくボーっとしていたが、よく考えると大変なことだった。雅也が故郷の九来里に来る。 「ふーん。田舎の割にいい店じゃん、」  九来里の一つ隣の町はずれに、静かな個室の沖縄料理店があった。大人同士で静かに飯が食えるような店はここ以外ほぼなかった。酒が飲める場所ならもう少し選択肢があるのだが、雅也からは飯だけでいいと釘を刺されていた。  彼を九来里の駅でひろって、車で店まで連れてくる。普段何を食べているか知らないが、田舎の飯が口に合うかどうか不安だった。ひとまず店の雰囲気は気に入ってもらえたようだ。この際芳昭におすすめの店を聞いたことは黙っておこうと思った。    俺は本当に酒がなくていいのか、席に通されたあとも念を押して聞いた。酒なしで、いったい雅也に何を話せばいいのか分からなかった。 「いいよ。酒が入ったら、余計なことするかもしれないしな」  彼の口ぶりは冗談めいていたが、明らかにそれが今日の本題であった。思わず、左腕で――雨水の腕で、自分の右手を落ち着かせるように撫でた。  こうしていると、雨水に撫でられているような気がした。  一年ぶりに、あの雅也とのキスの記憶と対峙するのは怖かった。なんとかそこに触れないよう、食事中はずっと当たり障りのないことを、普通の友人が話すであろうことを慎重に選んで話題に上げた。彼も出だしはそれに応えてくれた。  バンコクでの暮らしや向こうでの仕事ぶりについて。今やっている俺の仕事。ラフテーやをつまみながら、会話はとてもスムーズに流れていったように見えた。  それでいて、明らかに不自然だということはお互いによくわかっていたと思う。  目に見えない落とし穴を、涼しい顔でやり過ごしていく。  次第に彼は口数を減らした。  食事は終わり、雅也の飲む水のグラスは空っぽで、結露してじっとりと汗をかいていた。 「あのさ、」  もう何も入っていないはずのグラスに、雅也が口をつけながら言った。 「去年のことはもう、忘れろよ」  冷静で、噛みしめるような声色だった。  彼はそれきり黙った。今の言葉が全てだったらしい。  どう受け止めればいいのか分からず、言葉が返せない。もう一度、左手で右手を撫でる。  もっと安堵すると思った。この提言をのめばわだかまりは解消する。〈忘れる〉という形でお互い合意が取れるのだ。これからも、互いに浅く付き合っていこうと、そう取り決めるだけ、それだけ。  それなのに、なぜだか胸の奥は苦しかった。突き放されたと思った。そのうち怒りが込み上げていた。俺は混乱した。 「わかった、」  何ひとつわかっていないが、それ以外に今言える言葉が思いつかない。  雅也がグラスを置く。 「悪いな、」 「謝ることじゃないと思うけど……、」 「俺が謝ってんだから素直に受け取っとけよ。」  茶化すようにして笑うと、雅也は皿に残っていた抹茶アイスの溶け残りをつっついた。  俺は一刻も早くこの店を出たかった。そうしなければ、彼をひどい言葉で罵ってしまいそうだった。胸ぐらをつかみ、暴言を浴びせ、なんでいつもあんたはこうなんだと、大声で叫びだしてしまいそうだった。  理由は全く分からなかった。  とにかくこの場を丸く収め、さっさと外に出て、彼を駅に送ろうと思った。そうすればむこう一年は彼に会わなくてすむ。この胸の違和感と向き合う必要はなくなり、雨水への喪失感だけを抱えた穏やかで優しい日々が戻ってくる。 「明日も農園手伝うのか、」 「うん、」  店を出て、車にもどってエンジンをかけた。店の灯りは車内にまで届かない。真っ暗な空間に、メーターのライトが嫌にはっきりと浮かんだ。助手席の雅也の頬が、人工的な青色に染まった。 「しっかりやれよ。」 「なにそれ、親戚のジジババみたいじゃん」 「言えてる、」  彼は上の空で笑った。その笑いがあまりにも白々しくて虚しくて、その時初めて俺は、何にこんなに怒っているのかをようやく理解した。 「なあ雅也、」  苛立ちのにじむその声に、はっとして彼が振り向く。 「なんでお前まで俺を置いてくんだよ、」  俺は動揺する彼の服を掴んで引き寄せ、その顔を正面に見据えた。 「忘れろなんて言葉、要らないんだよ。頼むから、もう置いてくなよ。頼むから、」  そばにいてくれよ。  恐らくこの怒りは雅也に対するものではない。  この期に及んで穏便に済ますことに腐心し、すべて、自分の気持ちすらすべて、何もなかったことにしようとする自分自身への怒りだった。  雅也は俺の手を強い力で払い除けた。 「やめろよ、」  彼もまた、怒りとも混乱ともつかない感情で満ちた顔をしていた。
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