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「もう遅いんだよ。俺だってわけわかんねーよ。お前、自分の気持ちだけ優先して俺のことを蔑ろにしてんの、わかってんのか? あの日だって、あんなふうにその気にさせといて、こっちが手を出した途端に逃げやがって。人の気持ちも知らないで……。
忘れろってのはなぁ、仕事とお前でぐちゃぐちゃになりながら一年考えて出した結論なんだよ。ちったぁ尊重しろよこの大馬鹿野郎」
そこまで言われては言い返さないわけにはいかなかった。
俺は時も場所も忘れて声を張り上げた。
「俺だって色々あったんだよ。雅也には何一つわかんないような繊細な事案がさ。一方的に俺のせいにすんなよ。だいいち雅也だって分かりにく過ぎんだよ。なんだよ人の気持ちって、俺はお前のどんな気持ちを汲めばよかったんだよ」
「文脈から考えろボケ。お前、俺が入社してからずっとお前のこと好きだったのに全っ然気づいてないだろ、」
「すっ」
ここで黙ってはいけないと思った。
「そんなのわかるかよ。お前が俺のこと好きだって一言でも言ったか? あの日だって急に密室で迫られたら怖いほうがまず先だろうが。考えるんなら俺の気持ちだって考えてほしいわ!」
「お前今しがたおんなじことしてんだぞ。密室で胸ぐら掴んできて最低じゃねーか!」
「うっさい! お返しだと思えよ。どんだけ怖いかよーくわかったろ。それから」
言いかけたところで、車内に響く怒鳴り声は消えた。雅也が俺の口を塞いだのだ。彼自身の唇で。
やがて舌は待ちわびていたかのように激しく絡み合い、二人の口から互いの唾液がこぼれ出た。
もう何もかもどうでも良かった。俺は両手を彼の首の後ろに回し、その綺麗にセットされた髪をぐちゃぐちゃにしながら抱きしめた。雅也もまた、俺に息をつかせぬほど激しく腔内を責め立てた。
「……誰か見てる、」
フロントガラスの向こうで、男が一人こちらを見ていた。
「ほっとけよ、」
覆い被さる雅也の向こうに、確かに男が――真っ黒なコートと帽子の男が、じっとこっちを見ていた。
俺はその時初めて、自分の左手が雨水であることの意味を知った。
彼らは、雨水の身体を探している。
捕まってたまるか。こっちは今取り込み中なのだ。
「場所変えよう。いいだろ、」
俺の提言に、雅也は焦れったそうに身体を離した。
車を駅とは反対方向に走らせ、国道から丸見えの寂れたホテルで降りる。部屋の扉を締めた途端、続きが始まった。
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