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「このまま朝まで延長しとく?」
雅也はベッドの上で、俺の髪を撫でながら聞いた。彼の腕の中で、ぼうっとしながら考える。
身体中がだるくて、一歩も歩きたくない。だが、さっき店でみた黒い男のことは気がかりだった。長くここに留まらないほうが良いはずだ。
「……いい。帰る。明日も朝から農園だし、」
「動けんの?」
さっき二人でシャワーを浴びたときも、だるすぎてほぼ座っていた。雅也の方もだいぶ腰に来ていたようだった。つまりお互いに故障者である。
「雅也は?終電何時?」
「んー……」
横たわったまま腕だけで携帯を探り当てると、俺の頭の上で操作を始めた。
「今から二十分後。」
それならもう、電車は諦めたほうが早かった。
ふたりとも、しばらく黙った。
「……部屋、きったねーな、」
雅也がぼやく。
「泊まるのはナシだな」
「まぁ……」
互いに夢中になっていたときはそこまで気にならなかったが、事後に見た浴室は清潔とは言い難く、壁紙もカーテンも、随分と年季が入っていた。しかも支払いが未だにエアシューターだ。ここまで来るとかえって新しい。シーツが清潔なのがせめてもの救いだった。
「どうするかな……」
「んー……じゃあ、俺の実家に泊まるのは」
「無理」
雅也は即答した。
「ここに泊まるのより無理だろ。俺はどんな顔でお前のご両親に会えばいいんだよ」
「別に、黙って普通にしてればいいんじゃない……、」
「無理」
再度そう言うと、彼は再び黙った。
近辺にビジネスホテルはない。あるのはこういう古臭いラブホテルか、あとは少し行ったところが観光地になっていて、その沿岸沿いから九来里にかけて民宿が並ぶぐらいだった。
民宿。
「そういや、知り合いに民宿やってる人いるんだけど、」
その場で母に電話し、佳代子さんに連絡してもらうと、素泊まりなら大歓迎だという返事を得ることが出来た。夜が遅いので期待していなかったが、知り合いのよしみということらしい。
彼女の民宿には、学生の頃に部活の合宿で二回ほど泊まったことがあるが、少なくともここよりはずっと清潔で落ち着けるだろう。
雅也はしぶしぶ提案を飲み、着替えて二人で車に乗った。
潮の音と匂いは、現実の感覚を取り戻すのにちょうどよかった。俺はさっきのことをすっかり忘れた心地で佳代子さんと少し話をし、雅也を預け入れた。
「そういえば、冬尽くん。……あの子はまだ帰ってないの?」
帰りがけ、彼女に呼び止められた。
あの子、とは雨水のことだった。雨水は最初に佳代子さんのところに来て、そこから母を通して木場花卉園に、俺のもとに来た。彼が消えた話は、母から即座に佳代子さんへと伝わっていた。
俺は未だ音沙汰が無いことを素直に伝えた。雅也は隣で大人しくその話を聞いている。
「そう……」
佳代子さんは少し沈んだ面持ちだった。
「そりゃ、他人だけどさ。私も心配なの。ほら、娘もさ、昔、あったじゃない……」
もう随分昔のことだが、彼女の娘は大学生の時分、夜中に家出をして行方知らずになったことがあった。雨水と違って、彼女は一週間もしないうちに発見された。
遺体だった。
朝の浜辺に打ち上げられていた。状況から見て自死とのことだった。
水の死体は、変わり果てた、という言葉では追いつかないほどに変質する。
佳代子さんはその記憶に耐え続け、ひたすら若い人間に、素性もしれぬ人間にすら、宿を貸し続けた。罪滅ぼしだと、母から聞いたことがあった。
「きっと見つかる。希望を捨てちゃだめよ」
「はい。」
俺は左手で右手をぎゅっと掴みながら、頷いて車に戻った。
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