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翌朝、思いもよらぬ電話が入った。
『お前の実家って花農家だったよな?ちょっと見てみたいんだけど。』
「……はぁ?」
俺はてっきり、雅也はタクシーを呼ぶなり佳代子さんに送ってもらうなりして、早々に帰っていくものだと思いこんでいたので、この電話は寝耳に水だった。
「見るって、なんにもないよ」
『別にいい。見たことないから見てみたいだけだ。問題ないだろ』
十時に迎えに来いよ、と言って、俺から無理やり〈わかった〉という返事を引きずり出すと、速攻で電話を切られた。
「おぉー!」
ゴールデンウィークだったので、家族は勢揃いしていた。農園は例によってカーネーションの出荷まつりだった。雨水の代わりに去年から雇っているお手伝いまでいて、大所帯だ。その大所帯に、雅也は喜びをもって迎えられた。
「兄ちゃんの会社の人、初めてみた!!」
特に泉は大はしゃぎだった。雅也は見てくれだけはいい方で、彼女の観賞用男子センサーが反応したのが手に取るようにわかった。
「かっこい〜。ずっと見てられるわ。飛行機ずらそうかな」
「ちゃんと帰れよ……」
「冗談だってばぁ。雅也さん、なんにもないところだけど楽しんで!」
雅也は仕事でよくやるような爽やかな笑顔でそれに応じていた。
ひとまず、彼をハウスを案内することにした。
「すごいな、」
真っ赤なカーネーションを見て、雅也は控えめながら感嘆の声を上げた。
「うちはカーネーションがメインだからな。母の日、近いだろ」
「ふーん……まぁ俺には縁がないな」
「そうなの? お母さんは?」
「もう十年近く会ってない。会うつもりもないし」
彼はカーネーション畑の中にゆっくりと入っていった。その背中を追う。
ハウスにはちょうど二人きりだった。お手伝いさんたちは小休憩中で、作業台で父母と世間話をしている。
中ほどまでいくと、急に雅也がこちらを振り返った。
「なぁ、お前の腕さ、」
「……え、腕?」
「左腕だけなんか違うだろ。骨も肌も別人みたいだ。……去年はそうじゃなかった。左右で同じ腕だったし、左手の中指が少し曲がってた」
そこまで見られているとは思っていなかった。
腕はすでにすっかり癒着して、境目は自然にぼけていた。自分自身その腕に慣れてしまっていたが、よく見れば骨格も肌の質感も隠しようがないほどに雨水のままだった。
「……これは、」
「今朝、同じ腕のやつに会ったぞ、」
その言葉を認識した途端、あらゆる感覚が一瞬遮断された。音は消え、カーネーションの濃い花の匂いはまるで無臭となった。俺は動けなかった。指先がこわばり、作業用に持っていた鋏が、音を立てて地面に落ちる。
「夜明け前、宿を出て波打ち際を散歩してたんだ。目が冴えて眠れなかったからな。……そのときにそいつに会った。左右で違う腕をしてた。多分片方は、お前の腕だ。」
「名前は……」
「聞いてない。けど、そいつ、」
お前の名前を知っていた。
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