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ハウスの中は、生花の湿気と香気に満たされていた。
むっとした空気が肌にまとわりつく。
「ちわーっす、」
声をかけてみたものの、人の気配はない。しんとした花園で、花たちが彼らにしかわからない言葉で囁きあっているようだった。
彼はここで収穫作業をしているはずなのだが。
――うすいくんもいい子だよ。よく働く。ちと体が弱いが……
ひょっとして、倒れてるのではないか?
その想像を裏付けるように、白いコデマリの海原は静まりかえっていた。
「うすいくん、いる?俺、木場の息子だけど……、」
警戒しながら花の間を歩く。
こんなところで倒れられても困る。ただでさえ救急車の遅い地域だ。死なれたりなんかしたら夢見が悪い――
途端、奥からカサカサ、という音がした。
音の付近で枝葉が揺れる。
みずみずしい草花の間から、日に焼けた茶色い髪が表れ出た。つむじのあたりに、白い花びらが雪のようにくっついている。
「あ、うすい、」
くん、と言おうとして、俺はあわてて「うすいさん」に訂正した。
自分より随分年上に見えた。四十路手前ぐらいだろうか。父母は〈若い子〉と言っていたが――まあ父母から見れば彼もじゅうぶん若い分類になるのだろうが、俺から見たら割といい歳である。
彼は――うすいさんは、俺の存在に驚くでもなく、よろよろと立ち上がってじっとこちらを見つめた。彼の左手の鋏がハウスの光を反射してキラリと閃いた。
眠たそうな厚いまぶたの、ほっそりした男だった。汚れた作業着にエプロンをつけていて、ぶどうの樹みたいにひょろりと伸びた背は、今にも折れてしまいそうなほどか細く、
――虚ろ。
それが彼の印象の殆どだった。
何を考えているのかさっぱりわからない。
その薄気味悪さに思わず後ずさりそうになるのを抑えながら、顔には自分の中で一番爽やかな笑顔を張り付けておいた。
「はじめまして!俺、木場の息子の冬尽。収穫、どう?」
「……、」
彼の口は多少動いたように見えたが、ボソボソとして聞き取れなかった。
声が小さいらしい。
普段会社で声のでかい人たちに囲まれているせいか、そのことが一層彼の存在を歪んで認識させた。
「……はじめまして。」
うすいさんはさっきよりは大きな、それでも掠れるような弱々しさでもう一度挨拶をしてくれた。思ったより低い声だ。
「もう休憩だって、母さんが。気分悪い?大丈夫?」
「いや、少し……目眩がして。座ってただけ。いつものことだから、問題ないよ。……よろしく。冬尽くん――、」
ゴツゴツした手を伸ばしてくる。
なんだ、握手なんて人懐こいところもあるじゃないか。
そうしてその手を取ろうとした途端、フラ、とうすいさんの身体がこちらに向かって傾いた。
そのまま彼はコデマリの花と葉の海に沈んだ。
「ウソ?!」
あわてて花の海に手を入れ、彼を引き上げてやろうとした、
その瞬間、
ぐい、
強い力で腕を引っ張られた。
バランスを崩し、俺もコデマリの海の中に沈む。見上げると、ハウスの屋根よりもずっと手前に、コデマリがトンネルを作っていた。
何が――、
腕を見る。俺の腕は、うすいさんの骨ばった手に、しっかりと掴まれていた。
「うすいさん?」
彼は地面に横になったまま、じっとこちらを見ていた。
さっきまで眠そうだったはずの瞼は、驚くほどの強さで俺の目を熱心に見つめている。俺の内側まで暴き、焼き尽くしてしまいそうな、視線。
「……ごめんね、冬尽くん」
そう呟くと、俺の腕を掴む手に力が込められた。彼の細い腕からは想像もできないくらい強い力だった。
同時に、掴まれた右手にカッと火がついたような激痛が走った。
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