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二摘目
九来里から帰ってすぐ、仕事に追われる日々が続いた。
担当している案件のひとつが暗礁に乗り上げていたために、高層ビルで深夜までその相手をせねばならない。あまりに混迷を極めていたので、別の案件を担当していた雅也も手伝いに来た。
終電ギリギリまでビルに残り、住んでいるマンションにはシャワーを浴びるためだけに帰る。それすらも面倒くさくて会社の隣のホテルに部屋を取ることもしばしばだった。
とにかく体力と集中力の勝負だ。そういう案件は間々あった。
その夜もやれ調整だ資料だ分析だという地味な作業に追われていた。時計を見る。二十二時時近い。いつもならそのラインは余裕で越せるはずなのだが、その日は妙にだるかった。
「冬尽、だいぶ疲れてんな。見せてみろよ」
机に突っ伏す俺の首筋に、冷たいものが当たる。雅也が買ったエナジードリンクを押し当てたようだ。
雅也は俺の机から資料を取り上げると、読みながらふーん、と言った。響きは嫌味ったらしいが、こういうときの彼の頭は高速で動いていて、何かを見つけてくれることが多い。
「ここ、使うフレームワークはこれでいいのか?これの根拠が曖昧なせいで、以降の方向が怪しくなってるぞ。」
「ほぉ……」
「あと、ここはもう少し詰めた方がいい。使えるかもしれない資料があるから後で送るよ……それでいくらか糸口が見えてくるんじゃねーの」
「ほぇぇ……」
瞬殺。
「まったく、俺がいてよかったけどな、お前、俺は先生じゃないんだよ。もうちょっと頭使ってこなせよ。」
「そーね。」
こいつの正体が高慢ちきのひねくれ男じゃなかったら、今頃女子も放っておかないだろう。
「とりあえず、その疲れた顔なんとかしろよ。見てるこっちが滅入る。じゃ、お疲れ」
雅也が去ったあと、彼に貰ったドリンクを口にする。人工的な黄色の液体はいつもの味で――だがいつもよりもずっとドロリとして感じられた。
埒が明かない。
気分転換にリフレッシュコーナーへ歩いてみる。足元まである大きなガラス窓の外は暗く、部屋の中の明かりを虚しく反射している。その中に、薄く俺の姿が映る。
雅也の言う通り、酷い顔をしている。
おそらく、雨水が根を通じて吸い取った何かのせいだった。
――根は見えないけどしっかり張ってある。近くにいる限り、触れずしてきみを食べられる。
左手を見る。今はなんともない。遠く離れているから、食われはしないのだろう。
雨水につながれた一本の鎖、手枷。
あれが夢であってほしいと思いながら、残りのエナジードリンクを一気飲みしてパソコンに向かった。
結局、仕事は多少前進はしたものの資料は完成しなかった。上司には叱られるを通り越して心配された。俺の取りこぼした仕事は雅也が完璧にこなした。
「ねぇ兄ちゃん、雨水さんに会った?」
次に農園に帰ったとき、妹の泉も一緒だった。仕事の都合がついたらしい。はるばる福岡から、ご苦労なことである。今しがた、ハウスの雨水に挨拶をしたところだという。
「会ったけど、」
「……どう思う?」
その眼差しは真剣で、まさか泉まで餌食になったのかと思って身構えた。が、泉の顔色は大して悪くない。むしろ地方とはいえ国家公務員の激務に耐えている身にしては、いやに肌艶が良かった。
「……どうって……、」
「めちゃカッコよくない?」
「はぁ?」
「ちょっと儚げ美人っていうか……イイ」
「おっさんだろ、何だよ儚げ美人って」
「おっさんて。兄ちゃんとそう変わらないでしょ。」
そんなことはない。俺を吸って若干若返った気もするが、まだ年上感はある。というか彼に年齢という概念はあるのだろうか?
「いいなぁ。眼の保養だわ。視力良くなりそう」
「なんだよそれ、」
いつもの妹だった。俺は少しホッとして、泉の背中を叩いた。泉が振り返る。
「なんか兄ちゃん痩せた?」
「え?」
「手の力、弱くない?昔はもっと、背中バンッ!って叩いてきたのに」
「……ばーか、手加減したに決まってるだろ、小学生じゃあるまいし」
「ふーん、」
なんだか腑に落ちない様子で泉は俺を見た。
「食べてる?」
「食べてるって。母さんかよ」
「だって兄ちゃん、昔っから体弱ってもなんにも言わないんだもん。中学の時もさ、体育で指折ったのに、家族の誰にも言わずに学校いってたでしょ。」
「懐かしっ、」
そんなこともあった。中二の夏、バスケの授業でやらかしたのだ。
異常な痛みと腫れが続いて、ただの突き指ではないだということは明白だった。ただそれが骨折だとは思わなかった。それまで骨折なんかしたことがなかったからだ。
よく分からないものを分からないまま騒ぎ立てて、周りに迷惑をかけたくなかった。だから腫れが深刻になるまで放置した。結果、普通に治すよりもずっと金と時間がかかり、その上変な治り方をした。
今でも、俺の左手の中指はちょっと曲がっている。
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