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「あーあ、父さんも母さんも、また煩く言ってくるだろうなー。『泉〜!雨水くん、いい子だぞ!彼氏にどうだ!』って絶対言う。千円賭けていい。」
「言いそうだな。実際どうなの。彼氏とか」
「いるわけないじゃん!作ってる暇ないって。兄ちゃんだっておんなじでしょ?もー、うちら兄妹、仕事大好きなだけなのに、なんか悪いことしてる気分。あっちはどっぷり、仕事してるのにさ。
ま、それよりもあの人たちの身体のほうが気になるし、兄ちゃんもなーんか元気ないし。あたしもちょくちょく帰ってくるから、身体気をつけときなよっ」
きらきらと、こっちが恥ずかしくなるくらい純真な笑顔で泉は笑った。
こいつは昔からこうだった。夢中になるものがそこかしこにあって、それでいていつでも他人を思いやることができた。たまに彼女のことが羨ましく思えるときがある。俺が仕事をしているのは、それが好きだからでなく他のことに興味が持てないからだ。
「あ、冬尽くん。お帰り、」
ギイッと音がして、ハウスから雨水が顔を出した。エプロンに鮮やかな緑の葉が何枚かひっついていた。カーネーションの葉だろう。
思ったよりも元気そうだ。といって、その元気は誰のおかげかといえば俺のおかげであり、彼の元気を俺が喜ぶ理由はどこにもない。
だが何故か不思議と、道端に咲いた花を見つけたような温かな心持ちだった。
実際、彼は植物だから本当に花を咲かせているかもしれない。花だ、と言っていたが、どんな花を咲かせるのだろう。見てみたい。
「カーネーション、順調に開花調整が進んでるよ。母の日が待ち遠しいね。今日の分の作業はあらかた終わっちゃったから、休憩だって。――泉ちゃん、お母さんがハウスで呼んでたよ」
はぁい、と嬉しそうな返事をしてから、泉はハウスに戻っていった。その後ろ姿を見送ったあと、二人きりになったのを見計らって、雨水は俺に向き直った。
「ひと月ぶりだね。元気だった?」
「まぁまぁ、……」
元気ではない。フラフラする。対して、雨水は初めて会ったときより明らかに生気に満ちていた。相変わらず全体的にほっそりしてはいるが。
「泉ちゃん、元気で良い子だね。天気にとても詳しいし、いろんなことを気にかけてくれる。優しいな、」
「泉は……」
「大丈夫、彼女は食べてないよ。」
彼は心底親切そうな笑顔を浮かべた。
「……きみを食べる約束だからね。約束どおり、今日ももらうね。」
そう言って、その指が軽く折れ曲がると、くい、と引っ張られる感覚と、わずかな痛みが俺の左手にもたらされた。
すーっと血の気が引いていくような感覚があった。
苦痛という点では前回より随分ましだが、それでも身体に良くないことをしているのはよくわかる。春の柔らかな日差しが、場違いにのんびりと肩を照らす。
言葉はない。沈黙だけが二人を支配する。頭上で灰色の雲が流れていった。
雨水は静かに目を閉じている。あの日と同じ、祈るような面差しだった。何に祈っているのだろう。
俺は気をそらそうと、来週キックオフのある仕事のことばかり考えていた。雨水のことを考えると、また前回みたいな醜態を晒しそうだった。
「少し痛む?」
雨水は俺の手を取り、手の甲をさすった。
やめてくれ。
その皮膚の接触に、腹の奥が熱を持とうとするのを、かすかな痛みに集中することでどうにかそらす。
――知ってる。人間はここをよくされるのが好きなんだろ、
あの日のことは思い出してはいけない。
――してあげようか、
不意に、ハウスの中から楽しげな声が近づき、その扉が開いた。雨水が顔をあげる。
「ねー、兄ちゃん、雨水さん、このあとみんなでご飯行かない?」
雨水は軽く笑いながら首を振り、家族団欒を邪魔したら悪いから、と、一人でハウスに戻っていった。
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