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ヒナがこの喫茶店で働き始めてから三か月が経った。仕事にも慣れて来て、店主との関係も良好で、充実した日々を送っている。
この店がアルバイトを募集しているのを知ったのは偶然で、彼女が店のある駅前の商店街をぶらぶら歩いていたら、この店の前でバイト募集の貼り紙を見つけた。すぐに電話を入れると、その日に貼り紙を出したばかりだとの事だった。これは良い縁だな、ヒナは思った。彼女の採用はすぐに決まった。
通っていた大学がつまらなくて辞めてしまい、この先どうしようと思っていた矢先の事だった。同居する両親もこれで少しは安心してくれているだろう、勝手にそう思う事にして、今は先の事はあまり考えずに彼女は毎日を暮らしている。
店はヒナが来る前は店主が一人で切り盛りをしていた。カウンター席とテーブル席合わせて二十席ほどの小さな店だ。加齢により一人で全てを対応するのが体力的にきつくなり人を雇うことにした、彼はヒナにそう説明した。
店主は六十代の男性で、灰色の髪をいつも綺麗に整えた、瘦せぎすな柔和な印象の人だった。ヒナとは親子ほどの年の差があるが、そういう感じで彼女と接することはなく、少し遠慮するような接し方だった。ヒナはそれが嫌ではなく、むしろ心地よい距離感だった。注意すべき時は相手にはっきりと伝える芯の強さも、彼は持ちあわせていたからである。
店は庶民的で、店主はコーヒーを始め、料理も含めた店のメニューにそれほどこだわりを持っていなかった。コーヒーはコーヒーメーカーを使うので、ヒナにも淹れることが出来た。料理も、これは店主が作るが、ものすごく美味しい訳では無い。でも価格が安くて量が多いので客は満足できた。
「じゃあ、俺はちょっと休むから。何かあったら声かけて」
午後二時過ぎ、店主はヒナに言った。いつもこの時間に彼は休憩を取る。
「わかりました」
ヒナのその言葉を聞くと、彼はのそのそと店の奥にある小部屋へと入って行った。その後姿には、はかとない哀愁があり、ヒナは彼のその背中が好きだった。
聞くと、店主は以前は家族がいたが大分前に離婚しており、娘もいて仲が悪いわけでもないが、会う機会もあまりないとの事だった。
だが、ヒナから見るに彼はその事に関しては割り切っている様子だった。以前の家族の事は、やや自嘲気味に少し笑顔も交えて話すからである。だからヒナは彼がたまに見せるある寂しさはどこから来るのか、それは彼女にとってちょっとした疑問だった。
今、店に客は二人いる。一人は五十代の男性でスマホをいじっている。カウンターの端が彼のお決まりの席で、いつもジャージ姿だ。もう一人はテーブル席に座る四十代の小太りの男性で、食事の後の眠たそうな目で店の備え付けのテレビをじっと見ている。二人とも常連だ。
ヒナは特にすることもないので、客と一緒にテレビを見ていた。緩やかに時間が過ぎていく。こんなのでお金貰っていいのかな、と少し思う。
チリン、と入口の扉に付けた鈴が鳴って、男の客が一人入って来た。
「いらっしゃいませー」
ヒナが言うと、客は笑顔で答え、三席あるテーブル席の、真ん中のテーブル席の一つに腰を掛けた。ヒナがお冷を持って行くと、
「コーヒー、それとレモンティーを」
そうヒナに告げた。
「かしこまりました」
そう言いながら、「あ、まただ」心の中でそう思った。
ヒナは注文の品をテーブルに置いた。
「ありがとう」
そう言うと男はヒナに微笑んだ。少しして、コーヒーを啜る。
彼もまた常連客の一人だった。年齢は店主とほぼ同じくらい。体格も店主と似ていて痩せていた。店主と違うのは髪形で、彼は髪を黒く染めていて、額が広くなっていた。数年前までは勤め人だった、そう言う雰囲気を持っていた。
ヒナはカウンターの奥の自分の定位置からその客をちらちらと見ていた。客はコーヒーだけを飲み、レモンティーには一切手を付けていない。それは、今日だけではなかった。いつもコーヒーとレモンティーを頼み、そしてコーヒーだけを飲む。それが彼のこの店での過ごし方だった。
「なんでだろう」
ヒナはその手の付けられていないレモンティーのポットとカップを見ながら今日も小さくつぶやく。もったいないなあ、ヒナがそう思うのを尻目に、その男性客はじっとテレビを見て、美味しそうにコーヒーだけを啜るのだった。
その常連客は一時間も経たずに帰って行った。ヒナはそのテーブルの下げものをしてシンクの所に戻って来た時に、丁度店主が店に戻って来たので、彼女はこの疑問を話してみようと思った。
「店長」
ヒナがそう言うと、彼はまだ少し眠そうな表情をしていた。
「なに?」
「さっき帰ったお客さん、レモンティー頼んだのに一口も飲まずに帰っちゃったんです」
「そう」
「今日だけじゃないんですよ。前来た時もそうでした」
「そうか」
彼は余り興味がなさそうな顔をする。
「コーヒーも一緒に注文して、コーヒーだけを飲むんです」
「お金はちゃんと払ってるんだろう?」
「もちろん。でも…」
「じゃあ、いいだろう。こっちが色々言うもんじゃない」
「それはそうですけど」
ヒナは少し口をとがらす。
「ねえ、店長」
「なんだ?」
ヒナは声を低くして、
「このレモンティー、私が飲んでもいいですか?」
店主はヒナのその言葉に驚き、声を出して笑って、
「もう冷めてるだろ」
「氷を入れて、アイスティーにします」
「はは、わかった。いいよ。でも裏で飲めよ」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、お疲れ」
「お疲れさまでした。あ、あの下げものだけ洗っておきます」
「おう。よろしく」
ヒナはシンクに向かった。店主はその姿を見てから一度店を見まわして、ヒナの皿を洗う音を聞きながら、テレビを眺めた。この店は午後五時で閉店となる。
レモンティーを頼んで、口を付けない。その行為をする客は実は一人ではなかった。ヒナが知る限り、それを行う客は三人いた。三人とも常連客だった。三人とも男性で、彼らの年齢はいずれも還暦を超えている。そして、その客は必ず三つあるテーブル席の真ん中のテーブルの席に腰を掛ける。さらに、来る時間はみな決まって午後二時前後だった。
たまにこの三人の常連が店で被る時があった。その時は後から来た客は違う席に着き、レモンティーは頼まない。あらかじめ決めておいたという感じではなく、なんとなくそうしている雰囲気だ。
何か意味があるんだろうな、とヒナは確信しているが、そのままにしておいた。店主の言う通り、こちらが色々詮索することではない。でも気になって仕方がなかった。
そんなある日、その日も例の常連客の一人である、額の広い男性が店に来ていた。彼はコーヒーとレモンティーを頼み、そしてレモンティーには口を付けなかった。
その客が席を立った。ヒナを見てからレジの方に向かう。ヒナもレジに向かった。
「ごちそうさま」
そう言って伝票をヒナに渡す。
「ありがとうございます。八百円になります」
彼は千円札を出した。ヒナが受け取ってお釣りを出そうとすると、
「店長は元気?」
そうヒナに話しかけて来た。
「…ええ」
「いつもこの時間に来るからね。最近見なくて。この時間、店長は休憩かな?」
「そうです」
ヒナは素直に答えた。
「そうか…」
何となく、意味ありげな答え方だった。ヒナはいい機会だ、と思って思い切って聞いてみた。
「あの」
「ん?」
「どうして、レモンティー飲まないんですか?」
彼は少し驚いた顔をして、ヒナを見た。
「何か意味があるんですよね」
彼は少し笑って、
「うん。ちょっとね」
「聞いたら、ダメですか?」
「いや、そんなことはないよ」
彼はそう言って首を振ったあと、少し間をおいて、
「実は最近、ここの常連客の一人が亡くなってしまったんだ」
彼は驚くヒナの顔を見て、
「その人は近所に住む俺と同じくらいの年の女性で、とても明るい人でね。よく俺にも気さくに話しかけてくれて。店長も交えてテレビを見ながら取り留めのない話をして、それがとても楽しかったんだ。でも急に病気で亡くなってしまってね」
彼は一つ息を吐いた。
「彼女はいつもこの時間に店に来て、真ん中のテーブルに座り、レモンティーを頼んでいたんだ。だから彼女への供養と言うか、感謝の意味も込めてね。何となく始めたんだよね、彼女と親交のあった常連達で。明るい人だったけど、生涯独身で一人暮らしで寂しいってよく言ってたから。そんなあの人を忘れないように」
「…そんな意味があったんですか」
「そう。そして彼女が亡くなってしばらくして、君がこの店で働くようになって…」
その時店の奥の扉が開く音がした。
「よう、店長。久しぶり」
彼は休憩を終えて店に入って来た店主に声を掛けた。
「おお。いつもありがとう、店に来てくれて」
「ここは落ち着くからね。また来るよ」
彼は手を振って店を出て行った。扉が閉まり、扉に付けた鈴の音が鳴りやんだ後、
「上がっていいよ。あのテーブルの下げものは俺がやるから」
そう言って店主は静かにテーブル席の方に歩き出した。
「わかりました。お疲れさまでした」
そう言って、ヒナは彼の背中を眺めた。その背中はいつもよりも寂しそうだった。
その時ヒナは思った。そうか。どうして私が雇われたのか。そしてなぜいつもあの時間に休憩を取るのか。
彼の背中は男の背中だった。ただその女性がいなくなって寂しいだけじゃない。店長は彼女の事が…。
ヒナはある想いを胸に秘め、下げものをした彼が返って来るのを待った。
「今日も私があのレモンティーを飲もう」
店主はテーブルを丁寧に拭いている。
完
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