0人が本棚に入れています
本棚に追加
第一章
月明りが綺麗な夜だった。暗い夜空に昇る大きな丸い月は、周りの星明かりをかき消すほどの光を放っていた。澄んだ空気を伝って、月の光は静かな住宅街にも降り注ぐ。
数か月前に建ったばかりの新築にも、月は光を届けていた。ここの主人は政治家で、次の選挙に出馬する予定だった。妻と娘と息子の四人家族で、休日は幸せそうに出掛ける姿を、近所の人はよく目にしていた。
ぬちゃぬちゃ……
テーブルの上のデジタル時計は深夜の一時を示している。
静かなリビングに、粘性の強い液体を踏みながら歩く耳障りな音が響いた。
足音は、何かを探すようにリビングを徘徊する。
リビングには、この家の主人、妻、そして娘が、赤黒い海の中にうつ伏せで倒れていた。
むせ返るような血のにおいが充満している。
「どこかなぁ……」
楽しむような声が、足音に混じって聞こえてきた。
ぬちゃぬちゃ……
やがて、足音は遠ざかり、リビングの扉を開けて出ていく音がした。
代わりに、納戸が開いた。中から、十歳になるかならないかぐらいの少年が這い出てきた。憔悴しきった表情で、辺りをぼんやりと見渡している。
納戸のすぐ前まで血は流れてきていた。這い出てきた少年の手はすぐに血に染まる。
少年の目に、変わり果てた家族の姿が映った。月の光に包まれて、静かに横たわっている。
少年は壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
引き寄せられるように、家族の元へと歩いて行く。
ぬちゃぬちゃ……
大変なことになっているから、眠っている家族を起こして助けを求めなければ。
血のにおいが濃くなる。
母親が一番近くで眠っていた。少年は膝をついて、その頬に手を当てる。
「お母さん」
頬に触れるなんて久しぶりだった。少し冷たくて、温めてあげようと、両手を両頬に宛てた。
──佑、どうしたの。
いつもなら、そんなことを言って笑ってくれるはずだった。
でも、目も開けてくれない。何も返してくれない。
「お母さん……どうしよ、大変なことになってるよ……ねえ、お母さん……」
肩を揺すっても、目を開けてくれない。
赤く汚れた頬がかわいそうで、袖で拭ってあげる。
──ありがとう、佑。
いつもならこうやってお礼を言ってくれるはずなのに、何も言ってくれない。
そこで、ようやく気づいた。
死んじゃったんだ。
ようやく、少年は受け入れた。
目の前で起きた、凄惨な出来事を。
力が抜けて、へたり込んだ。
どうしよう。
どうすればいいんだろう。
考えなければいけないのに、頭が動かない。
ぼんやりとして、目の前に倒れている家族しか、目に入らない。
警察を呼べばいいのかな。
警察って、電話番号、なんだっけ。
ぬちゃぬちゃ……
背後に、気配を感じた。
振り返ると、頭上に高々とナイフを持ち上げた男の姿が目に映った。
「みぃつけた」
男はニヤリと笑った。
大きく歪んだ口元が気持ち悪いなと思った瞬間、ナイフが振り下ろされて、少年の意識はなくなった。
× × ×
はっとして、身体を起こした。汗がだらだらと流れ、心臓がばくばくと鳴っている。布団を握っている手は、力が入りすぎて白くなっていた。
恐る恐る両手を開いてみたが、血はついていない。辺りを見回しても、あの家ではない。
少しずつ意識がはっきりしてきて、ここが今の住居だと思い出した。
先程までの出来事は夢だったと気づいたが、今度は呼吸の仕方が分からなくなった。吸っても吸っても酸素が足りない。身体も震えてきて、胸元を強く握った。
──佑、酸素はそこら中にある。吸うだけじゃなくて、ちゃんと吐け。
ふいに幼馴染の声が頭に響いてきた。幼稚園の頃から仲良くしてくれている、航の言葉。背中をさすってくれる手の感触も一緒に思い出して、その手の動きに合わせて呼吸を落ち着かせていく。
あの夜の出来事は、十年以上経った今でも、こうして佑を苦しめる。明るいうちは問題なく行動できるようになったが、無意識下で見る夢になると、どうしようもなかった。昔のように毎晩見るわけでもないが、こうして時々、気を抜いてしまった時に、あの悪夢を見る。
ふう、と息をついた。やっと呼吸がまともにできるようになり、佑はもう一度仰向けに転がった。起き抜けで過呼吸は疲れる。
あの事件で亡くなったのは、佑の父親、母親、姉。つまり、佑以外は亡くなった。なんとか一命をとりとめた佑も、いまだにこうして過去に囚われ続けている。
ベッド脇のローテーブルに飾られた家族写真。佑はそれを見つめた。
「母さん、父さん、姉ちゃん」
名前を呼びながら、一人ずつ指で触れていく。そこに温もりはなく、あるのはガラスの冷たく硬い感触だけだった。
コンコン
突然、ノックの音が飛び込んできた。
びくりと身体が大げさに反応する。
「佑、起きてるか」
航の声だった。
「う、ん」
驚きに、少し詰まりながらも、佑は返す。
「開けるぞ」
もぞもぞと佑が身体を起こすと、航がドアの隙間から中を覗き込んできた。
「……入るぞ」
険しい顔で、航は中へと入って来た。大きな体を揺すりながら、佑の元へと近づいて来る。
「また夢か」
「うん」
航は、佑がどんな事件に巻き込まれたのかを知っている。ずっとそばで支えてきたのも航。ただの幼馴染なのに、どうしてここまで優しくできるのだろうと、佑はいつも思う。
「お前も大変だな」
そう言って、航は佑の頭を撫でた。ぶっきらぼうに力強く撫でられて、寝ぐせ頭がさらにぐしゃぐしゃになる。
「しょうがないよ、過去は変えられない」
そう言って弱々しく佑が笑うと、「……そうだな、過去は変えられない」と苦虫をかみつぶしたような表情で繰り返した。
「佑、シャワー浴びてくるか? 汗、気持ち悪いだろ」
「ううん、先にご飯食べる。お腹減った」
佑はのそのそと布団から抜け出すと、クローゼットを開けた。放り込まれた服が雪崩のように崩れ落ちてくる。
「……服ぐらい綺麗にしまえよ」
航は佑が抜け出た布団を綺麗に畳みながら言った。
「着れればいいの、着れれば」
佑は適当に長袖とパーカーと長ズボンを取り出すと、スウェットを脱ぎだした。
「昔からそれだよな、お前は」
「俺、B型だから、細かいことは気にしな~い」
「血液型と性格のちゃんとした因果関係は認められてないんだぞ」
「へ~、そうなんだぁ」
下着一枚の姿になった佑は、タオルを一枚探し出すと、無防備にもそのまま汗を拭きだした。
「佑、今日の朝飯は……」
布団を畳み終わった航が振り返って、呆れたように「何してんだ」と言った。
「汗かいたから拭いてんの」
「なんでパンツ一枚なんだよ」
「この方が楽じゃん」
ふんふんと適当に鼻歌を歌いながら、佑は汗を拭き終え、服を着替え始める。
「それにしても」
航が腕組みをしながら言った。
「よくそれで生き残れたな」
「何?」
「背中の傷」
「ああ、これ?」
佑の背中には、大きな傷が残っている。死神の鎌で裂かれたような傷跡は、右肩から左の脇腹にかけて大きく背中を横断している。ぴたりと背中に貼りついているそれは、まるで山脈のようにも見える。
「俺の生命力舐めんなよ」
長袖に腕を通しかけたまま、佑は親指をぐっと立てる。
「分かったから、早く着替えろ。見られたくないんだろ」
「なんだよ、そっちから見といて酷いなぁ」
佑は口を尖らせながら、長袖を着た。
「じゃあ、俺は先行ってるからな。今日の朝飯はハンバーグだ」
「ほーい」
航は、ばたんと扉を閉めて出ていった。
佑はそれを確認すると、ふっと力を抜いた。手にしていたパーカーが床に落ちる。
「……まだ震えてら」
いまだおさまらない手の震えと、じんわりとにじむ汗。
脳裏には、あの夜の光景がこびりついて離れなかった。
最初のコメントを投稿しよう!