夜桜心中

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夜桜心中

   まだ我が主が若かりし頃、お城にはそれはそれは見事な桜の木がございました。枝ぶりも大きく、盛りになると花をつけた枝が重そうにしなり、ふさふさとまるい大きな桜色の綿雲のように、朧月夜にほわりと浮かびあがって見えるのです。  あれはまだ、私が18の頃でしたでしょうか。主はいつものように桜の下で槍の稽古をなさっておられました。主は24で、男ぶりも良く、鍛え上げた体は鋼のようでいて、しなやかな獣のようでもあり、惚れ惚れするような御容子にございました。  私は然るお方の命にて、主のお側近くに上がりましたが、私の雇い主が悪し様に言うようなお方とは到底思えず、迷っておりました。 「(あおい)、相手をせよ」 「私、にございますか」 「できぬと申すか、忍であろう」  できぬ訳ではございませぬ。忍とはいえ元は侍の子。ただ忍び込むだけではなく、剣も槍も相当以上の修練は積んでおりました。ただ……。 「女子の身では……」  私は、男でありながら、女として、侍女として潜り込んでいたのでございます。この家は警戒が強く、新規召し抱えは余程の知己でもなくては叶わず、側近くに使える身分ともなれば尚のこと、身包みを剥がされるほどに身上を調べ尽くされるのでございます。  自分で言うのも憚られますが、この頃の私といえば、体も細く、顔立ちは女子そのものでございました。よくも母はこのように産んでくれたと思うたものですが、当時はまずもって男と見破られる気遣いはない程に、立ち居振る舞いなども細心の注意を払っておりました。 「とうに知れておるわ。お前はどこぞの忍……犬か、猿か、狸か、いや弟か……そうか、母か」  然様にございます。私は、この方の実のお母上に雇われ、主の弱みを調べ尽くすようにと仰せつかっていたのでございます。  主の刃の先が私の首筋に突きつけられました。そして左手で、主は私に短刀を投げてよこされました。  こうなればもう、なるようにしかならぬと、私は刀を鞘走らせ、主と対峙いたしました。  二合、三合と打ち合ううちに、私の体の中の血が猛るのを感じておりました。この方は決して大うつけでも阿呆でもございません。お側にお仕えして既に半年、下の者にも細やかな気配りをされる主の、奥底にある優しさや孤独を、私はちゃんとわかっておりました。  私はこのお方は斬らぬ。そう心に決めました。 「切っ先が鈍い。母上の手のものならば生半な者ではない筈。斬るつもりでかかってこい」  私の小袖は、既に胸元が一閃されており、18の若者の胸板が晒されておりました。主は悲し気な瞳で私を見つめられました。  主はまた、主家を裏切って主の元に寝返るような半端者も蛇蝎のごとく嫌っておられます。私の変心を聞いたところで、私を斬るであろうことには変わりありませぬ。 「良い腕だ。流派は」 「一刀流にござります」  私は元は上総の小豪族の子でございましたが、生家は北条に攻め滅ぼされ、人を頼って流れるままに、巡り巡って主のお母上に拾われる仕儀となりました。 「ほう。今一度、相手をせよ」 「然れば、お刀を拝借いたします」  桜の木の根元に、稽古用の刀が立てかけられておりましたので、それを手に取りました。主は黙ってご覧になるだけで、遮ることもなさりませんでした。  そして再び、私達は顎が上がって立っていられなくなるまで、何度も何度も打ち合いました。私など、化粧を施した顔のまま、まるで裸同然に着物が千切れており、大変な姿と成り果てておりました。  しかし男というものは、こういうものでございます。子供のように無心でぶつかり合っているうちに、心が裸になり、まるで生まれた時からの友垣のような親近感を感じるものなのでしょう。  ごろりと仰向けに並んで転がり、私と主は、夜目にも眩しい桜の大木を見上げておりました。 「美しいのう」 「はい。見事な夜桜にござります」 「そうではない。美しいのはそなたじゃ」  主は真っ直ぐな瞳で私をご覧になりました。冷やかしや皮肉ではなく、心から、そう仰ってくださったので御座います。 「(あおい)、本当の名は」  ご家中にて私は、(あおい)と名乗っておりました。 「里見(さとみ)蒼一郎(そういちろう)にございます」 「安房(あわ)の里見の一族か」 「はい、枝の枝に御座いますれば」 「そうか……蒼、儂の元で働かぬか」  息を乱しながら顔を横に向けると、主が真摯な眼差しで私を見ておられました。その男らしい汗ばんだお顔に、私は愛しい男を前にした女子がそうなるように、心の臓がドクドクと音を立てて体の芯が震えてしまったのです。 「お側においてくださるのですか」 「但し、側室としてじゃ。閨に忍び込む不埒者から、儂を守るが役目と心得よ」 「勿体ない……ご寝所にお仕えせよなどと。それ程までにお信じ下さると仰せですか、この私を」 「おまえは、俺を裏切るまい。剣を合わせてみてわかった。だが、証はもらうぞ」  主が、ゆっくりと私に覆いかぶさってこられました。  優しく唇を吸って下さり、優しく……主は私にお情けを下さいました。  あの夜桜の下で、私は証と共に操を、お捧げ申したので御座います。   「して、御坊はそれからその主殿の元に」 「ええ、片時も離れずに、衷心よりお仕え申し上げました。これでも、随分と可愛がっていただいたので御座いますよ。翌年にお母上は弟君を擁立しようと企んで失脚し、間も無く殿は御一族を統べられ、私は後顧の憂いなくご奉公申し上げました」  本能寺の焼け跡で、一心不乱に経を上げていた僧侶は、そう言って数珠を握りしめた。  余りに熱心で倒れてしまうのではと思った旅の侍が、ふと声をかけたのが始まりで、もう一刻あまりその場で話し込んでいた。 「貴方様は旅の途中にございますか」  今度は僧侶の方から、旅装の若侍に問うた。 「はい。私は主命にて花見の場所を探しに、こうして歩きまわっております」 「然様にございましたか。では大阪のご家中で」 「ええ。末枝ではありますが、禄を頂いております」  まだ嫁取りも済ませていないような若侍は、僧侶の顔を覗き込んだ。笠の下にあるのは、驚くほどに婀娜で色気のある美貌であった。侍は思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。 「まさか、御坊の主とは……」  笠を指で上げた僧侶は、艶やかに笑った。 「言わぬが花ということもございましょう」  柔らかな声音でそう言われ、若侍は、体の芯がチクリと痛むのを感じた。その痛みから逃げるように話柄を転じた。 「もうすぐ桜が開きます。御坊は、どこで桜を愛でるおつもりですか」 「桜ですか……桜は……」  僧侶はその細身を両腕で抱くようにして溜息をついた。 「桜は好きではありませぬ。あの時の、殿のお優しいお情けが思い出されてたまらなくなるのでございます。そして、私から殿を奪った者達を殺してしまいたくなるのでございます……仏に仕える身ではなく、生身の女のようにあられもなく身悶えして」 「え……」  僧侶が言葉通りに両腕でその華奢な体を抱きしめた。その所作が余りに艶めかしく、若侍は瞬く事すら忘れて魅入ってしまった。 「旅のお方の歩みをお止めして、お喋りが過ぎました。この辺りで御免蒙りまする」 「あ、いや、御坊……」  僧侶はしずしずと、引き止める若侍に背を向けるようにして、本能寺の焼け跡から去っていってしまった。  若侍が手配した花見の席で、主は大満足で接待に勤しんでいた。  桜が満開の醍醐寺の境内で、野点をし、薪能を催した。  見事な夜桜が、幽玄の舞台を誂えていた。来賓達も夜桜に惑わされたような酔った目をして、能舞台を見つめていた。  音曲が始まった。  たしか演目は高砂であった筈だが、舞台には女物の美装束が敷かれ、現れたのは六条の御息所(みやすどころ)であった。 「え、嘘だろ、葵の上⁈……」  夜桜の下で、妖艶な舞が繰り広げられていく。若侍にそれを止める力などなく、上役とてオロオロとするだけであった。ただ幸いにも、主夫妻は上機嫌な様子なので、そのまま黙って推移を見守ることにした。  役者の舞は流派の定型に囚われず、夜桜がかけた幻惑の呪いのように、女の情念を匂い立たせた。光源氏を想って体を抱く仕草には女達からの啜り泣きが聞こえてくるほど、美しく哀しい舞であった。 「上様の仇、覚えたか! 」  突如、幻惑の霞を切り裂くように、御息所が面を放り上げ衣装の下から刀を抜き放つなり、舞台から猿のごとく主席に飛びかかり、若侍の主を一刀のもとに斬り捨てた……と思ったが、近習に阻まれ、能役者は幾つもの刀をその身に突き刺され、刀を落とした血塗れの手を、若侍の主に向けて必死に伸ばした。  主はまじまじとその顔を見て、ニヤリと口の端を上げて名を呟いた。 「これは上様ご側室、蒼の君、生きておられたとは……やはり、中身は男であったか。閨に送り込んだ女忍が次々と骸になりおる故、どやつの仕業かと思うとったが、まさかおみゃあ様たぁのう……本能寺で死に損なったか、無様な」 「上様が……仇を、討てと……私を、お逃しに……」 「所詮は色で仕えた尻下郎よのう……おみゃぁなど生きたところで益はなし、とっとと死ぬるがええがや」 「お前を呪って……よ、夜桜のし、下で、死ぬるは、本望……う、うえ、さま……」  ああ! と若侍は声を上げた。あの本能寺で経を上げていた美貌の僧侶であったのだ。能の鬘が毟りとられ、やがて主の前で、あの僧侶は首を取られてしまった。 「色仕えの分際で……」  首を失った胴体に向かって、主は唾棄した。  その姿を見て、若侍は憤りを感じた。あれほど愛する人を想って命をかけた人を愚弄するとは、人の上に立つものの仕儀か、と。 「御坊……」  しかし、まさか我が主が、桜が咲くと殺したくなる相手だったとは……いや、この主であれば然もありなん。若侍は上役に呼ばれるにも構わず、醍醐寺を後にした。  三条河原に、僧侶の首が晒された。美しく整ったその顔は、あれほどの恨み言をぶつけながら首を取られたというのに、安らかに微笑んでいるようにさえ見えた。 「きっと、愛しいお方に、お会いになれたのでござろう、御坊」  罰当たりじゃと念仏を唱える街の衆の人だかりから離れた橋の上から、牢人となった若侍は心を込めて手を合わせたのであった……。                             了
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