第六の手紙

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 人間はあまりにも恐ろしい場面に遭遇すると、何も考えられなくなるのでしょうか。私も、主人の隣にいるあの女も、木偶のように、ただただ呆然と立ち尽くすことしか出来ませんでした。それなのに主人だけは、その桜の樹を満面の笑みで眺めておりました。  ああ、今思い出しただけでも身の毛がよだつほどの恐ろしさでございます。けれど本当の地獄はここからだったのです。  枝垂れ桜の太い樹の幹から、何本もの青白い腕が生えてきたのです。  何十本もの腕は蛇の大群のように絡み合い、犇めき合い、まるで一匹の大蛇のようにうねりながら、あの女の方へと向かっていきました。逃げるという選択肢を与えないほど凄まじい速さでございましたから、女は悲鳴一つ上げる間もなく、あっという間に“桜の腕”に絡め取られてしまいました。  女は激しく手足をばたつかせておりましたが、逃げることは叶わず──…。  その後のことは、正直覚えておりません。おそらくあまりにも極悪酸鼻な光景だったために、私は無意識のうちにその記憶に蓋をしてしまったのでしょう。けれど、音を聞いたことだけは覚えております。何かとても厭な音──柔らかいものが潰れるような音、それから、固いものが圧し折れるような音──。  はっと我に返った時にはもう、女は地面に倒れ伏しておりました。身体中の全ての関節があらぬ方向にねじ曲がっています。桜の腕は彼女の死体を、幹の方へと引き摺り、そして──…。  そして桜の幹は、彼女の死体を飲み込んだのでございます。  いいえ、嘘ではありません。死体はまるで流砂に沈んでいくかの如く、ずぶずぶと桜の幹に飲み込まれていったのです。頭、胴、脚、彼女の身体は次第に取り込まれて行き、最後は、彼女の履いていた靴だけが樹の根元に落ちているばかりでございました。  こんな現実を誰が受け入れられましょう。ああ、私は夢の世界に、それも飛び切りの悪夢に迷い込んでしまったのでしょうか。  私は呆然とその場にへたり込んでおりました。
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