桜と桜のいとしい呪い

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 汗ばむ職員室で首筋に、今朝受け取ったハンカチをあてる。忘れない用にと桜が朝まで自分の懐に入れて眠っていたせいで、想像していたよりもっと困ったことになっていた。  ハンカチが顔に近づくたびに、仄かに懐かしさと恋しさが胸をつく。  ごくささやかな、昨日抱きしめた桜の香り。  僕の、と俯いた子をあれから腕の中へ包み込んだ時、鼻先を掠めた柔らかい香り。赤らんだ頬が愛しくて、指を添えて顎を持ち上げやると、大きな瞳で見つめてきた。  それが。  職員室の時計はまだ、8時8分。  帰りたい。  ガラリ。  職員室の扉が開いた。   「失礼します。おはよう、いづ…神馬せんせい」  桜だ。  ヒラヒラと胸の前で控えめに手を振り、八重歯が見える笑顔で近づいてくる。 「ハンカチ早速使ってくれてる。……暑くてちょっとバテてる?」  そうじゃない、桜。なんとも説明のしようも無いけれど。 「僕、今日日直なんだ。日誌くださいな」  何も知らない少年が、ニコニコと紅葉のような両手が差し出してきた。  家では保護者兼恋人同士でも、玄関を出る前にささやかに唇を重ねたら家に帰るまでは、教師と生徒だ。高校生の桜が友達と健やかに過ごすかけがえの無い時間を……出来たら学業も忘れないように……見守るだけだ。邪な気持ちより強く、成長を眩しく思う気持ちが勝っている。  ……いつもなら。  教師と学生の一日は忙しい。時間は戦場の矢のように過ぎて行き、同じ学校に居ても桜とまともに過ごすのはほとんど帰ってからだ。  それが。  昨日までは問題なく仕事に没頭していた時間が。たったハンカチ一枚。  その一枚が、抱きしめている時の、恋人の桜の距離を堪らなく思い起こさせてしまう。  ヒラヒラと目の前で両手を向ける桜は、学校で安易に抱きしめる訳にはいかないのに。家とは関わる、距離が違う。  早く桜を連れ帰って、抱きしめたい。   馬鹿らしいことにまだ朝だ。たった一日が長くてつらい。  これではまるで、母親が恋しい子どものようだ。  「……おはよう。今日は日付を書き忘れるなよ」  感情を出来るだけ外に追いやるように短く喋るが、桜は首をちょっと捻って日報を、俺の指ごと掴んで引き寄せた。予想外にぐらつき下がった耳元に、そっと小さな口が寄せられる。 「あのね、使ってくれて嬉しい」  ホワンとした高い声。このくらいなら、人懐こい生徒が教師に耳打ちをしてきたように見えるだろう。桜は一言伝えたらスッと日報だけを掴んで離れ、満足気に微笑んでいる。  他愛無く微笑ましい。これが必死で感情に蓋をしている今日でなければ。  家で話す距離で、湿度のある柔らかい吐息。ハンカチより一層深く生々しい、桜の香り。  言葉が触れた耳の奥で、細い糸がプツリと切れる音が聞こえた気がする。  教室に帰ろうと離れた華奢な手首を今度は俺が掴まえ、目を見据えた。大きな瞳が呑気に揺れている。 「桜、ちょっと部室に来い」  桜が部員で俺が顧問を受け持つ小さな写真部の部室なら、こんな時間なら誰も来ない。  返事を待たずに戸惑う桜を連れ、鍵を掴み、職員室の扉を開く。足早に歩く廊下で、朝から神馬先生怒ってるじゃん……こわぁ……好き勝手な生徒の声が、朝の喧騒に紛れて聞こえてくる。近寄りがたいと思われていた方が今は都合が良い。 「ねぇ、どうしたの?朝から変だよ?」 「後で、話す」  何をどう話そうか。  廊下を突っ切り、中庭を抜ける。ポツンと校内の片隅にある文化部の部室練は、予想通り朝の賑わいから取り残されていた。静まり返った扉が並ぶ中、見慣れた「写真部」の簡素な札が貼り付いた扉の鍵を開け、桜を引き込み後ろ手で閉める。 「いづな、内緒の話でもあ……ぐうっ」  カーテン越しの光が窓近くだけをぼんやり照らす、薄暗い部室。灯りをつける間も惜しみ、口を開いた桜を強く抱きしめると少しづつ焦燥が癒えていった。顔を埋めるように深く息を吸い、ようやく呼吸ができたような心地になる。  ようやく、桜がいる。 「むぐ……苦しい……潰れる」  胸の中を見下ろすと、小さいつむじから呻き声が聞こえる。いつも家で会える、遠慮のない桜の声。じわりと胸に広がるように愛おしく嬉しい。 「すまない」  腕の力を緩めると、水泳の息継ぎのように、ぷはぁっと大きな息が聞こえて思わず目尻が緩んだ。  俺は、自分で思うよりずっと無理をして真面目に生きているのかもしれない。  恋しい気持ちを突きつけられて思い出したら、こんなにも脆い。 「どうしたの?え?もしかしてハンカチを見てたら僕が恋しくでもなった?」  ニヤッと悪戯っぽく口の端を釣り上げて笑う桜の頬を、ちょんと優しく指で弾いた。俺も、同じように口の端を釣り上げる。 「ああ。恋しくなったみたいだ」    たまには素直に答えるのも、悪くない。  見下ろす先の桜は、口をぽかんと開け目をパチパチとさせていた。意外そうな顔の前に、ポケットから取り出した桜柄のハンカチをひらめかせる。ヒラヒラと舞う、桜の夕暮れ。   「僕の、なんてしなくても」    今日は一日、どう責任をとってもらおうか。  休み時間の度に連れ込む訳にもいかない。  桜に伝えたら、好きに連れ込んだらいいじゃないかとまた口を尖らせるだろうか。  一日くらい、人目を忍んだ可愛らしい逢瀬を楽しむのも悪く無いけど。  せめて今日は、一緒に早く帰ろう。  まだ遠い下校時間を思いながら、小さな額にそっと唇を押しあてて白状する。 「とっくに、桜に囚われている」
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