桜と桜のいとしい呪い

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 俺は、随分と可愛らしい呪いにかかってしまったようだ。  学校には必要ないと主張しながら結局折れて、スーツのポケットにあのハンカチを入れて出勤した俺も悪い。本日八度目の溜息をつき、もたれた職員室の椅子が軋む。  藍色と紫のグラデーショに染まった、夕暮れ色のハンカチ。  綺麗だな、とは思う。手拭いのような古風な絵柄の桜の花がポツポツと白く抜かれ、江戸の花見のような趣がある。風流で控えめで、無愛想な男性教師が学校で使っても違和感は無いだろう。考えて買ってくれたのか。  朝の職員室は目まぐるしく、皆ハンカチどころではないのが有難かった。だけど。  このハンカチのせいで。  今日はもう、帰りたい。  艶やかな桜柄を見る度に、送り主の無邪気な笑顔が浮かび、俺は今日九度目の深い溜息を吐いた。 「いづなでも、これなら使いやすいかな」    使って!と笑った、少年らしい屈託の無い明るい声。休日に使おうとそのままタンスにしまうはずだった。キラキラした期待のこもった大きなつり目、笑うと揺れるやわらかい黒髪。  あの笑顔に昔から弱い。  壁の時計に目を遣る。8時5分。  知っている、さっき確認してからまだ2分しか経っていない。どれだけ帰りたいと願っても、時計の針を急かすことは出来ない。  忙しない職員室には4月とは思えないほど暖かい陽光が降り注ぎ、スーツのジャケットを脱ぎシャツを腕まくりしてなお汗ばんだ。運悪く今日は例年より3ヶ月早い夏日だとニュースで報じていた。首筋を伝う汗を教師が腕でゴシゴシと行儀悪く拭ってばかりいる訳にもいかず、何度もハンカチを手にしては、桜柄のハンカチの存在を頭の外に追い出すこともできない。  手にする度に、ニコニコと……時には拗ねてむくれて怒っている……気まぐれな猫のような桜の顔が浮かぶ。それこそ、桜が昨晩、願っていた通りのことだけど。  今頃桜も高校生らしく友達と教室ではしゃいでいるだろう。羽目を外して騒ぎ過ぎないように、クラス担任として釘を刺しに行くにもまだ早い。  口煩い教師があまり早く説教面を覗かせたら、生徒たちも窮屈だろう。家に帰れば桜は家族のようなものだけど、ここでは一応教師ということになっている。  感情を追い出して冷静にやるべきことをこなすのは、ずっと得意なはずだった。  とっくに書き終えた書類を開いては閉じ。  時計をまた見る。  8時6分。  もう半日が過ぎたような1分。  家に帰るまで、これから何年分の焦燥を味わうのだろう。  指をギュッと握りしめては開き、落ち着かない。昨夜のうちに授業や補習の準備を終わらせてしまうんじゃなかった。  窓を見れば中庭を口も足も忙しなく行き交う生徒たちと、緑が半分混じった桜の花。ガラスに映る険しい自分の顔。万年厳しそうと言われる眉間の皺は一層濃く、鋭い目と引き結んだ口がいつも以上に笑顔から遠い。  これでは、まるで。
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