桜と桜のいとしい呪い

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「先生が桜柄のハンカチくらい、学校に持って行ってもいいじゃない」    桜は唇の先を尖らせ、可愛らしくてハンカチを俺の鼻先へ近づけた。  目の前に広がる、花咲く夕焼け色。  家に持ち帰った仕事も一段落し、焙じ茶と一緒に夜食でも食べようか、という時だった。  一緒に暮らす畳部屋から、障子を開いて夜の庭を眺め饅頭を齧り一息つく。日が落ちれば春の空気はまだ冷たく、疲れを包み込むように心地良い。揺れる影のような草木と、黒塗りに点を落としたような欠けた月。  好きな子と二人分かち合う澄んだ時間を、毎日大事にしていた。この一時のために働いているような気もする。昼間は禄に話せない分、俺が隣にいるのを確かめるような聞いて聞かせての少年の弾む声と甘味が沁みる。  桜が好きそうだと買った酒饅頭は、皮が薄くしっとりとし、餡子は品よく口に溶けた。 「学校にそんな可愛らしいハンカチを持って行く必要は無いだろう」  湯気をたっぷり立てた焙じ茶は舌先に少し熱く、丁度俺の好みの温度にしてくれてある。口の中に安らぎと愛おしさが広がった。  桜がくれる、桜柄のハンカチ。  そんなものを学校に持っていけば、多分……。 「そうだな、桜と休日一緒に出かける時に使わせてもらう。学校で使わなくても。」  桜の柄が嫌いなわけじゃない。  品の良い色合いも好みだ。  桜からのプレゼントということが何より嬉しい。  けれど、学校は。  言葉にし難い予感を飲み込んで卒なく答え、ついでに遠回しにデートに誘ったつもりが、何も気付かない桜は不服そうに眉を寄せた。 「……持っていってよ、学校に」 「何でそんなに学校へ持たせたがるんだ?」 「いづなは何でそんなに持ちたがらないの?僕からのプレゼントを持っていくの、そんなに嫌?」  眉も口も曲げている表情が子供の頃から変わらない。小さな顔にやわらかく寄せた眉間の皺を指で突くと、ペシリとすぐに払い除けられた。 「そう言う問題じゃない。むしろ桜は何で俺にそんなに持たせたいんだ?」  桜の細い指が饅頭をまた一つ掴む。俺が持つとピンポン玉のように見える饅頭が、桜の手の中ではテニスボールのように見える。 「だって、いづなばかりずるいじゃない」  ガブリ、と小さな八重歯が饅頭に刺さる。 「僕の、この服とか」  ぐいっと桜は自分の胸元を引っ張ってみせる。水色に燕柄の浴衣、見立てた通り良く似合う。 「半分くらい僕の服はいづなが選んでいるのに、僕がいづなに選んだのは無地のネクタイ2本ぐらいしかない」  言われてみれば。  もう桜が自分で服を選ぶ歳になっても、街で似合いそうな服を目にするとつい買ってしまう。それをずるいと呼ぶのが面白い。思わずフッと息が吹きこぼれた。 「……そもそも俺は保護者で、お互いの役割も経済力も違うだろ」     桜とは偶然縁があった他人だけど、ほぼ保護者としてずっと寄り添って育ててきた。家族のようなものだ。  今はもう、親子なだけでは無いけれど。  たまに愛情に倫理が混じって胸に刺さる。俺だけが。  若く元気な恋人は、飄々としている。心が強く満たされるようにと幼い頃から可愛がりすぎて、遠慮がちな幼児だった桜は今とてもたくましい。大きな目が引かない、と言いながら饅頭を齧っている。  似なくて良いところが俺に良く似た。 「ムグムグ……じゃあ高校生の経済力に見合ったハンカチぐらいいいだろ。明日持っていってよ」  断るのは容易いが「じゃあ僕も、もういづなが選んだ服は着ないから」と言われても今後の楽しみが減ってしまう。丸めこむのも誠意がない上に、だいぶ骨が折れそうだ。  ……明日一日。気にせずいつも通りに過ごせばいい。そんなに困ることにもならないだろう。 「……この一枚を明日持ってけばいいんだな」  諦めてハンカチに手を伸ばすと、桜は花が咲いたような笑顔になり、すぐにスッとその手を引っ込めた。 「今受けとって、僕がいない間にこっそり隠さないように明日の朝に渡すね。使っているか時々職員室に見に行くから」  なぜそこまで。 「桜、ひょっとしてこれは何かのまじないの類か?」 「おまじないじゃないけど……ねぇいづなやっぱりただのハンカチを避けすぎじゃない?桜柄が嫌いな理由でもあるの?」 「……そんなものは無い。それより桜の方がこだわりすぎだろう」  頬を掻きながら、桜はポツリと呟いた。 「だって、嬉しいじゃないか」  声が、予想外に小さい。  「僕があげた、僕の名前と同じ柄のハンカチをいづなが時々持っていたら……学校にいる時も、僕のっ!て感じがするでしょ?」  言うだけ言って俯き、頬をほんのり染め饅頭をまたほうばり始めた。さっきまで挑むようだった目線がもう合わない。  僕の。  胸にふつふつと温かいものが芽吹いてこそばゆい。  桜は。  口を開けば眠るまでいくらでも楽しそうに話す癖に、肝心な言葉は照れて避ける。あまり好きとか愛してるとか言わない子から、こんな風に独占欲を向けられたら。  持っていかない訳にはいかなくなってしまった。  思わず口元を手で覆う。  今度は俺が目線を逸らす番だった。
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