1-1 花の都の姫

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1-1 花の都の姫

 甘く、清廉な花の香りが、音もなく過ぎた気がした。  暗い闇の中、わたしは震える体を支えながら、伏せていた瞼を静かに開いた。  これが夢なのか、記憶なのかは分からなかったけれど、そこはとても寒い場所だった。  夢とは、記憶の整頓である。と、昔どこかで聞いたことがあった。ならば、この夢はきっと、わたしの記憶なんだろう。 〝キィ……〟と目の前に隔たる重厚な扉がゆっくりと開かれる。開かれた隙間から射し込む光に、震える体が止まることはなかった。  ~❀~ 「…………」  扉が開かれる寸前で、わたしの意識は現実へと戻された。  ドッドッ、と心臓が(はや)り、鼓動が早鐘を打つ。心に追いつかない体がもどかしく感じて少しだけ吐き気が込み上げるけれど、吐くほどではないので安心する。  ゆっくりと深呼吸をして、どうにかして心を落ち着かせることに集中する。過呼吸気味だった息が大分治まれば、今いる場所が「いつもいた場所」でないことに再び体が強張る。  あの扉は何だったのか。そして開いたのは誰だったのか。そんな、答えの出ない問いを頭の中に浮かべては消していく。  カタコトと砂利道をゆく馬車に揺られながら、 (……そうだった。わたし、売られたんだ)  目覚めて思い出すのは、父の言葉だった。  ~❀~  ――「お前はこれから『氷都(ひょうと)』へと嫁ぐことになる。先方に失礼のないよう、しっかりと務めを果たせ」  故郷である『花都(かと)』に未練など無かったけれど、離れて思うのは虚しさだった。  わたしがいたあの場所では、どこから迷い込んだのか小鳥の(さえず)りがいつも聞こえていた。あの声が聞こえるたびに少しだけわたしの心は満たされていたので、それがもう聞けなくなってしまったのだと思うと、途端に心に雨が降ったような気分になる。  今から引き返せば、小鳥にお別れを言うくらいはできるかもしれない。けれど、 (わたしはあの国に捨てられた身だから、帰る場所なんて、ない)  ふっと、諦めにも似た笑みが口から零れた。  砂利道が険しくなったのか、先ほどまで小さく鳴っていた振動が少しだけ強く響くようになった。ガタゴトと音を変え揺れる馬車。馬の(ひづめ)が地を蹴る、その力強さに耳を傾けながら、ここはどこなのだろう、もう『氷都』の領地内に入ったのかな、なんて他人事みたいに思ったりして、窓のカーテンの隙間からぼんやりと外の様子を眺めた。  寒さに耐えながら、日々の『務め』を果たしてきた牢の(さび)れたにおいはもうどこにもない。 『花都』の第三王女として生まれ、十六年間外に出ることを禁じられていたわたしにとっての初めての外の世界は、どこかしっとりとしていて生温(なまぬる)かった。  嫁ぐ、と一口に聞かされて、脳裏に浮かんだ言葉は「形だけの人質」だった。(てい)のいい追放と捉えてもいい。  形だけだとは言え人質になるだけの価値がわたしの体にはあると自負していたから、父がわたしを「商品」としてその価値を敵国との交渉に使ったことは容易に想像ができた。  その交渉の場を実際に見たわけじゃないけれど、そうとしか思えなかった。  その話を聞いても顔色一つ変えず言葉を発さなかったわたしを見て、父は都合よくわたしが人質となることを了承したと解釈したらしい。  自国での利用価値が無くなったのかもしれない。それが、一番大きくわたしの心に()し掛かった言葉だった。 〝花檻姫(はなおりひめ)〟――それがわたしのだ。  花の都と謳われる『花都』の檻に囚われた姫、という皮肉を込めた通称だった。本当の名前は別にあったはずだけれど、もう何年も呼ばれていないから憶えていない。  自国は、これから嫁ぐ先である『氷都』との長年の因縁戦争の末についに敗北した。敗戦国となった『花都』には後が無い。戦争の圧倒的勝者である『氷都』から、無理難題な要求を提示されると思っていた。  しかし、聞かされた要求の内容は「花檻姫(わたし)を『氷都』へ献上する」というものだった。人伝(ひとづて)に聞いただけのわたしの心境は困惑を極めた。  どこから「花檻姫(わたし)」のことを知ったのか。  もしかしたら父が自国を守るために犠牲にさせる「人柱」として、わたしを選び交渉の材料に使ったのかもしれない。  わたし一人が国の身代わりとなり、この体を敵国に差し出してこれ以上自国の民が傷つかないのなら、わたしは喜んでこの身を差し出そう。  それがわたしに課せられた使命なのだから。  だからわたしは、この話を聞いた時、父に対してどう思えばいいのか分からなかった。
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