しっぽを出すな

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 よく見知ったはずの道だった。村と西側の山とは何度も行き来をしたことがあった。いつもであれば、とっくの昔に家に戻れていただろう。けれど、立ち込める深い霧が邪魔をしていたせいで、おりつはもう半刻あまりもの間山から出られないでいた。霧の隙間から微かに覗く陽は、もうだいぶ傾いていた。背負った籠は、先月十になったばかりの娘の小さな肩を締め付けた。着物の隙間から吹き込む冷気は、おりつの中の熱をじわじわと奪い続けている。何より腹が減った。朝早くに飯を食べて以来、何も口にしていない。籠の中には山で拾ってきた大粒の栗がぎっしり詰まっていた。しかし、それを食べるなどということは思いもかけないことであった。棘に覆われた殻を剥くために、きっとかじかんだ手を傷つけてしまうだろう。何よりおりつにはこの栗に手を付けてはならない訳があった。 「おっ父が全部持って帰れって言ったんだ」 父の正蔵がつまみ食いを禁じた。その言い付けに背くことなど、それこそおりつには思いもよらないことであった。  正蔵は村の中でもそこそこの大きさの土地を持った篤農家だったが、それとは全く別の理由で村中の信望を集めていた。その眼は人の「いつわり」を見抜くのだ。寡黙で厳しい性格をしたこの男はぎょろっとした大きな眼を持っている。大きく見開かれた白眼は向き合う者を威圧し、中央の鋭い黒眼はその眼を射抜いた。その厳しい眼差しは人を怯えさせ、平静な心持ちで「いつわり」を口にすることをできなくさせる。そして、そこに生じた「やましさ」を絶対に見逃さない。正蔵の前で「いつわり」を言い通したものは、村に一人もいなかった。  おりつが七つの時にこんなことがあった。ある日、彼女の家を一人の男が訪ねてきた。村の北側に住み名を利兵衛といった。この男は酒と博打で身を持ち崩し、親から継いだ土地の大半を売り払っていたため村人の大半から疎まれていた。だが、妙に愛想がよく人懐こいところがあったので存外子どもたちには好かれた。おりつもこの男を嫌いではなかった。 「おりつちゃん、精が出るね」 利兵衛はにこにこと笑みを浮かべながら、落葉掃きをするおりつに声をかける。 「父ちゃんは今いるかい?」 「呼んできます」と朗らかに答え、おりつは裏の畑から正蔵を連れてきた。利兵衛は「おりつちゃん、すまないね」という礼もそこそこに正蔵と話しを始めた。その口調は先ほどまでとは打って変わって切羽詰まっていた。 「正蔵さん、何とかしておくれよ。おかしな疑いをかけられて困ってるんだ。あんたなら村の連中を取りなせるだろう?」 腕を組んで「今夜、寄合を開く」と口にした正蔵は、聞き耳を立てていた娘の方へ目を向けた。怖い顔をして「あっちへ行け」と言う。 おりつは慌てて駆け出した。家の裏手を掃くことにした。駆けている途中に一度だけ振り返った。利兵衛は正蔵と共に家に入っていくところだった。  それから半月ほどが経ち、おりつはその時のことなどすっかり忘れていた。ある日、正蔵に「前に、利兵衛が訪ねてきたことがあっただろ?」と出し抜けに問われた。頷くおりつに「奴は死んだぞ。お裁きが下ったんだ」と忌々しげに正蔵は吐き捨てた。 「少し前に村の年貢米を収めておく米蔵が火付にあって中の米俵もろとも燃えちまったことがあってな。奴は村中からその火付をやったんじゃねえかって疑われてたんだ。そして、進退窮まって俺に取りなしを頼んできた」 正蔵さん、あんたの眼はいつわりを見抜く眼だ。あんたが違うと言ってくれたら村の連中もきっと納得する。後生だ。助けておくれよ。 「奴の顔を見た。ひとめ見るだけで分かった。その眼は溢れ出んばかりのやましさで濁りきっていた」 正蔵の抑えた低い声に怒気が絡んでいく。 「奴はこの俺をたぶらかそうとした! 罪を犯す者、人に『いつわり』を言う者は見れば分かる。性根が歪んじまってるからな。一度歪んだらもう戻らねえ。病になった苗と同じだ。さっさと間引かねえと土ごと腐らせちまう」 正蔵の声にがたがた身体を震わせながら、おりつは全く別のことを考えていた。あたしのせいで利兵衛さんは死んだのかもしれない。あたしがおっ父に取り次いだりなんかしたから。 「その日の夜、寄合を開いた。奴が真っ昼間に松明を持って米蔵の方へと歩いていくのを見た村の者がたくさんいた。決まりだった。俺たちは名主様に取り次いでいただいて、奴を代官所へ突き出した。そして、お裁きが出たというわけだ」 「おっ父はいない」とあの時答えていたら、利兵衛さんは命をながらえることができただろうか。あたしにいつわりが言えたら。気がつくと正蔵の顔がすぐ真横にあった。両の眼が、全てを見透かすような眼がおりつのことをじっと覗き込んでいた。だめだ。できるわけがない。おっ父の前で「いつわり」を口にするなんて。正蔵は「帰るぞ」とつぶやくとおりつに背を向けさっさと歩き始めた。ごつごつと骨張った途方もなく大きな背中だった。おりつはその背中を見つめ、立ち尽くすことしかできなかった。その日以来、おりつは正蔵に「いつわり」を言ったことはない。
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