しっぽを出すな

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 もうどれだけ歩いたことだろう。どこまで行っても周りの眺めは同じような林ばかり。真っ白く濃い霧がおりつの身体のすぐ近くを覆っていた。その向こうにうっすらと建物のようなものが見えた。おりつは最後の力を振り絞ってそちらを目指した。ぼんやりとした影のようなそれは、近づくにつれてかたちをあらわにしていった。鳥居だった。その向こうには奥へと続く石段が見える。小さいながらも境内があるのだろうか。そうであればありがたい。腰を下ろして脚を休めることはできる。場合によっては山を覆う霧が晴れるのを待った方がいいかもしれない。それにしても……。鳥居にかかった注連縄の下をくぐり、おりつは考える。西の山に社があるなんて話は見たことも聞いたこともない。いったいどこまで迷い込んでしまったのだろう。石段を登るに連れて微かな音が聞こえた。ざっざっという何かが地を擦るような音だ。誰かが、もしくは何かが社の中にいるのだろうか。そうであれば、引き返した方がいいかもしれない。人であればいいが相手が獣だとしたらきっと無事では済まない。思いと裏腹におりつは石段を登り続けた。小気味のいい拍子を取りながら続くその音に誘われるようなことがあったのかもしれない。登り切ると霧の向こうに小さな人影が見えた。小さな境内の手前は下草が刈り取られて小さな広場のようになっており、その真ん中に「それ」はいた。おりつと似たような背丈をしていた。みすぼらしくてあちこち継ぎの当たった紺色の着物を着ていた。それだけ見ればおりつの村にもたくさんいるわんぱく坊主たちと何も変わらなかった。けれど、その顔が人のものとは違った。黄色く吊り上がった大きな眼。赤く引き結んだ口。そして何より雪のような真っ白な顔。そんな狐の面をかぶっていた。かぶったまま踊っていた。その足の草鞋が土を擦るたびにざっざっという音を立てていた。おりつはしばらくそこに突っ立っていた。頭がくらくらしたのだ。どうしてこんな深い霧の中で深い山の中で、子どもがひとり踊っているのだろう。いや、そもそもこれは夢か幻ではないのか。それがぴたりと動きを止めた。こちらに気づいたようだ。そのまま向きを変えこちらに向かってくる。おりつは脚がすくんだまま動けなかった。夢でも幻でもない。ちゃんと姿形を備えている。眼と鼻の先まで近づいてきたそれは、おりつに問いかけた。 「おめえ、誰だ?」 まだ喉仏の出ていない男の子の声だった。 「あ、あんたこそ……」 誰だ、とまで問うことができなかった。なんだかとても寒かった。歯ががちがちと鳴った。 「おいらかい? そうだな、おいらは……」 そこで、それは首を傾げて顎に手を当てた。にやりと笑ったのが、なぜかおりつにはわかった。 「おいらは化け狐、ここのお稲荷様の御使いさ!」  おりつは唖然とした。薄々考えてはいたのだ。こんな天気の日に深い山の中で子どもが一人踊っているというのは、人ならざる者の仕業かもしれない。ここが稲荷の社であることを考えれば、化け狐が出ることも頷ける。だが……。 「あんた、化け狐だって言っていいんか……?」 自ら正体を明かす間抜けな狐がどこにいるのか。逆に怪しくなってくる。おりつの疑いを見透かしたように「化け狐」が鼻を鳴らした。 「別に今おめえを騙くらかしてもしょうがねえからな」 「ほんとは人の子なんじゃねえの……?」 「人の子だとしたら、何のためにおいらが狐を名乗るんだ?」 問い返されてみるとおりつにもわからない。黙って首を振ると化け狐が得意そうにたたみかける。 「こっちはあんたのこと、よくわかるぞ。大方、この辺の子じゃねえだろ。霧に巻かれて迷子になった……違うか?」 違う、そんなことない! おりつは顔を真っ赤にして叫ぼうとした。できなかった。「いつわり」を口に出そうとしたからだ。話そうとした時、正蔵の眼が頭に浮かんだ。舌がもつれ、盛大にむせ返った。仕方がないから小さく頷いた。 「やっぱりそうか、正直なやつだなぁ」と化け狐が笑いながら言うものだから悔しくなった。おりつは化け狐の顔を思いっきり睨んでやった。だが、その顔は次の言葉で凍りついた。 「まあ、道に迷うのもしかたねえ。だってここは『この世』じゃねえからな」 「どういうことだよ! あたし、ちゃんと家に帰れるんか?」 おりつは真っ青になって化け狐に詰め寄る。 「正しく言えばこの社は『この世』と『あの世』の境目だ。かわいそうに、この霧のせいで迷い込んじまったんだなぁ」 「じゃ、じゃあ……あたしは死んじまったんか?」 「話はちゃんと聞けって。『境目』だって言ったろ。おめえはまだ死んでねえ。正しい道を通れば家にたどり着けるよ」 「ほんとう……?」と眼を輝かせたおりつに化け狐は「ただし」と指を立てた。そのまま自らへと向ける。 「帰り道を知ってるのはおいらだけだ。人の身だけでこの山を抜けることはできねえ。必ずおいらの案内が要る」 「お願いだ、送ってくれ!」 ここで化け狐はすぐに答えを返さず、わざと一拍置いた。面越しだったが、とびきりいやな顔で笑ったことはおりつにもわかった。 「……まさか、ただでとは言わねえよな? おいらはおめえにとって命の恩人だ。恩人には見返りがねえとな」 「わかった。あたしにできることなら、何でもやる。何でもする。だから早く……」 畳み掛けるようなおりつの言葉に化け狐は顎に手を当てる。しばらく考えこんで、言った。 「だったら……その籠の中の栗の実、全部おいらに寄越せ!」
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