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おりつはしばらく声を出すことができなかった。しばらく経った後で顔を俯かせ絞り出すようにして「……できねえ」と言った。
虚を突かれた化け狐が眼を白黒させる。顔は見えないが、そうとしか見えなかった。
「な、なんでだよ? ついさっき何でもくれるって言ったじゃねえか!」
そう、おりつは確かに言った。だが、籠の中にある栗の実を渡すことは『あたしにできること』でないのだ。何故なら……
「おっ父が全部持って帰って来いって言ったんだ」
「はあ? それこそいくらでも騙くらかせるだろ。全部谷に落としたとか、眼え離した隙に獣に食われちまったとか」
「あんた、おっ父を知らねえからそんなことが言えるんだ! おっ父の眼はどんな『いつわり』も見抜く。騙くらかすなんてとんでもねえ!」
詰め寄るおりつに化け狐は泡を食う。とてもお稲荷様の御使いのようには見えなかった。
「そんなこと言ったって……このままだと、それこそほんとに死んじまうぞ!」
おりつは顔を覆って泣き出してしまった。化け狐はどうしたものか全くわからない様子で、ひとまず声をかけようとしてはずっとたたらを踏んでいた。やがて大きく息を吐いて静かに言った。
「あの……おめえが親父に『いつわり』を言うことはないんじゃねえのか?」
おりつは涙を流したまま、訳がわからないという顔をした。
「あったことをそのまま話せばいいんだよ。おいらというお稲荷様の御使いに会って、拾った栗をお供えしてきた。それでいいじゃねえか。おめえの親父は信心深えのか?」
「足りねえ方じゃねえと思うけど……でもおっ母はお稲荷様をよく拝んでる」
「なら助太刀してもらえばいい。とにかく、もう泣くなって」
しゃくり上げながらおりつは「……ありがとう」と言った。よく考えるとおかしい。慰めてくれるなら栗の実を奪うのをやめてくれればいいのに。だが、おりつはよく考えるのをやめた。なんだか不思議と清々しかった。大きな声で叫ぶのも、人目を気にせず泣くのも随分久しぶりにしたような気がする。そうだ、栗の実なんかくれてやろう。化け狐の言った通りおっ父にはあったことをそのまま話せばいいのだ。泣き笑いするおりつの顔を化け狐が不思議そうに見ていた。
日は陰り、辺りは薄暗くなってきていたが、それと反対に森の中を覆っていた霧はもう大分晴れていた。中身が空になり随分軽くなった籠を背負うおりつは、化け狐の後について山を下る。
「そう言えばさ……おめえ、おいらが踊ってるの見てだよな? あれ、どうだった」
前を行く化け狐に照れくさそうに問いかけられて、おりつは少し困った。「わからない」というのが正直なところだ。知っている踊りと言えば村祭りの踊りくらいなのだ。そんなおりつに上手い下手を判断する術はない。ただ、確かに言えるのは村祭りの時はあんな風に跳ねたりしない。回ったりもしない。「……見たことねえものだった」と正直に答えると化け狐は「そうだろ!」と嬉しそうに言った。
「普通の踊りにおいらが趣向を凝らしたんだ。どこにも同じものはねえ。おいらだけの踊りだ」
化け狐はそのまま、内緒話をするように声を落とし、「おいら、江戸に行って踊りで身を立てるんだ。どっか大きな一座に入ってさ」と得意気に語った。おりつは首をかしげた。踊りの一座というものは、どこの馬の骨ともわからない余所者を受け入れてくれるものなのだろうか。そう問うと、化け狐は「何を馬鹿なことを」とばかりに鼻を鳴らした。
「おいらは狐だぜ? 一座のだれかに化けるのさ。姿形を変えちまえばどこにだって行けるし、だれにだってなれる」
空を見上げながら言う化け狐が、おりつには何だかまぶしかった。そう思ったことを悟られたくなくて、わざと意地悪な口調で言った。
「さっきみたいに、うっかり正体ばらしちまうんでねえの?」
「今日はわざと教えてやったんだ! 化けるのは完璧だっただろ? おめえの眼の前でおいらが一度もしっぽを出したかい?」
そういえば、おりつはここまで一度も狐のしっぽを見ていなかった。黙って首を横に振った。「そんなことより、ここまで来たらもう一人で帰れるだろ?」と化け狐は少し怒ったような声で言った。
言われて初めて気がついた。話しながら歩いていたせいだろうか。周りの景色は、あっという間におりつにも見覚えのあるものになっていた。いつも栗の実を採りに行く西の山と北の山とに伸びる分かれ道。今日に限って足を踏み入れたことのない北側に迷いこんでしまっていたようだ。おりつは小さく頷くと立ち止まった化け狐を少しだけ追い越す。せっかくお礼を言おうとしたのに、その背中にからかうような声が飛んできた。
「親父に雷落とされないように、うまくやれよ」
「あんたこそ」とむくれて返したおりつは、振り返らずにのしのしと村の方へ歩いた。十歩ほど進んだ後、一度だけ後ろをみた。おりつと同じくらいの背丈をして狐面をかぶった男の子は、跡形もなく姿を消していた。
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