しっぽを出すな

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 家の前に着く頃には陽が完全に沈んでいた。ぼんやりと雲をかぶった月だけが頼りなげな光を投げかけていた。おりつは大きく息を吸い込んで大きく吐いた。化け狐とは強気に別れたけれど、やっぱり正蔵に空の籠を見せるのは怖い。身を小さくかがめながら引き戸を開けた。 「おう……りつ。遅かったな」と迎える正蔵の声は存外に上の空だった。火の残った囲炉裏の側でなぜか鍬をためつすがめつしている。 「明日は早く出ることになった。村を挙げて山狩りをすることが決まったんだ」 おりつが口を開く前に、正蔵がぼそりと言った。目を剥くおりつとは違い、母のおよしに動じる様子はない。あらかじめ夫から聞かされていたのだろう。 「そ……そんな、いきなり。一体、誰を?」 また、罪人が出たのか。村人総出で追い回さなければいけないような大ごとなのか。出過ぎた口を挟んだおりつを正蔵は横目で睨む。だが、やがて重々しく口を開いた。 「『走り』が出たんだ……利兵衛の小倅だよ」 利兵衛には息子が一人いた。父親の死んだあとは名主の元に連れて行かれ、そこで小作として働くことになった。おりつ自身と会ったことはなかったが、歳は彼女と同じ十ほどになるそうだ。その子が耕すべき土地を放り出し、どこかに行ってしまったのだという。 「蛙の子は蛙だな。畑仕事もまともにしねえで、踊りの真似事ばっかりしてるろくでなしだったらしいが……ついに姿を眩ましやがった」 おりつはごくりと唾を飲み込む。心の臓が早鐘のように鳴っていた。村を逃げ出した十ほどの歳の男の子。思い当たる者が一人いた。あの化け狐だ。お稲荷様の御使いだなんて嘘八百。しっぽなど出なくて当然だ。ただの人の子なのだから。もちろん「この世とあの世の境目」なんてものもありはしない。おりつが村の北側に明るくないのをいいことに、ある事ない事吹き込んで栗の実をせしめたのだ。 「村の者が西の方へ駆けて行くのを見たとも言ってる。おめえ、あの餓鬼にどこかで出くわさなかったか?」 だが、おりつは正蔵にそれを言う気になれなかった。騙されたことへの怒りや悔しさは湧かなかった。代わりにずっと「どこにだって行けるし、だれにだってなれる」という言葉が心に残っていた。山狩りに捕まって欲しくねえ、そう思った。でも、どうしよう。おっ父の前では「いつわり」が言えない。「利兵衛の息子」に会ったことが知れてしまう。頭の中が熱くなった。ぐるぐる回っているようでもあった。 「そもそも、おめえ……採りに行った栗の実はどうした? 出かけてる間に何があった?全部話せ、りつ!」 徐々に険の混じっていく正蔵の声を聞いていたおりつの中で、出し抜けに何かが抜けた。頭の中に、体の中に涼しい顔が吹いたようだった。そうだ。あの化け狐が「利兵衛の息子」だなんて、あたしが勝手に思ってるだけじゃねえか。そんなことは一言も当人から言われなかったし、何かの証があるわけでもない。だとすればあれは何者か? 自ら名乗っていたではないか。化け狐だ。お稲荷様の御使いだ。それが「いつわり」かどうかなどおりつに見抜く術はなかった。ならば信じるしかない。心の底から信じる者に「やましさ」は生まれない。たとえ、まことと食い違っていたとしても、心に「やましさ」がないそれを「いつわり」とは呼べない。そして、「いつわり」と呼べないものを正蔵は見抜けない。おりつは顔を上げた。苛立った表情を浮かべた父をきっと見つめる。しっぽを出すな、おりつ。あたしは化かされた。そして、今から化かすんだ。  おりつは話し始めた。今日あったことと出会ったものについて。 「……栗の実を採るまではいつもと何も変わらなかった。よく見知った道を通って西の山の栗林まで行ったんだ。でも、籠の中が一杯になった頃、深い霧に巻かれちまった。ちょっとの先も見えなくて、道に迷って、気がついたら見たこともない稲荷の社に着いてた」 正蔵は顎に手を当てて黙っていた。母のおよしも傍に座って話を聞いている。おりつは一度息を継いだ。ここまで話すのは難しいことではない。そうとしか言うことができないからだ。「いつわり」の紛れ込む余地もない。厄介なのはここからだ。 「社の中に人影が見えた。……見たところあたしと同じ年頃の男の子のようだっただけど顔が人のものとは違った!」 話の途中で片眉を上げた正蔵に口を挟む隙を与えず、おりつは言い切った。 「黄色い眼、赤い口してた。真っ白な狐の顔だった」 皆まで言えばそんな顔の「面をかぶっていた」。 「狐はあたしに言った。お前は一人で家には帰れない。送ってやるから背中の栗の実を全部よこせって。あたしが従うと、あっという間に村に着いてた」 二人で話しながら下った山道はあっという間だったように「思えた」。正蔵は獣のように低い唸り声を上げた。何を思っているのかはわからない。おりつの眼の中に「やましさ」や「いつわり」を探しているのだろうか。出し抜けに「お稲荷様のご加護ですよ!」と甲高い声がした。見ると、ここまでただ話を聞いていたおよしが、顔を上気させていた。 「お稲荷様がおりつをお守りくだすったんです。だって、その子は西の方へ逃げたんでしょう? 子どもとはいえ『走り』をした曲者です。村の者を、それも女の子を見つけたら何をするかわかったものじゃありません。だから、栗の実と引き換えにわざと霧を起こしておりつを道に迷わせたんですよ」 「ああ、ありがたや」と両手を擦り合わせるおよしを、正蔵は「お稲荷様は神様だ。俺たちが人の身で、お心の内を推量するもんじゃねえや」と嗜めた。 「ただ、似たようなことはあるかもしれねえ。明日の山狩りは西をしらみ潰しに探そう」 そこまで言うと正蔵は鍬を手に取り「片付けてくる」と立ち上がった。おりつは父の背中を見つめた。ごつごつと骨張った途方もなく大きな背中だった。そこに向けてこっそりとあかんべえをした。正蔵の開けた引き戸から強い風が吹き込んできた。北風だった。あの間抜けで嘘つきな化け狐は、江戸にたどり着くことができるだろうか。踊りの一座に入ることができるだろうか。社の方角からくる風に身をすくめながら、おりつはそんなことを思った。
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