しっぽを出すな

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 翌朝、一人の男がおりつの家の戸を叩いた。その名を平助と言う。近所に住む百姓の一人で、山狩りの先頭に立つ正蔵を迎えに来たのだ。引き戸が開いて中から顔を覗かせたのはおりつだった。 「おっ父はまだ支度が少し残っていますが、すぐ出られると思います」 「ありがとう、おりつちゃん。朝から精が出るね」 気さくに応じた平助はどきりとしたように身を固くする。おりつ自身は何か言うでもなく、家の中に引っ込んでしまった。 「……血は争えねえのかな」と平助は小さく呟いた。十になったばかりの娘だが、眼の中に何か人ならざるものが宿っているような気がした。父親と同じ人の心の底まで見透かすような眼だった。その眼が、平助の心にずっとしまい込んできた「やましさ」を引きずり出してしまったことに当のおりつは気づいていないようだった。  あの日……利兵衛を代官所に突き出すことを決めた寄合の席に、当然平助も顔を出していた。正蔵は利兵衛が「いつわり」を言っていることを見抜き、火付の正体が明らかになった。そこに疑いはない。しかし、名主を通じて代官所に訴え出るにはそれだけでは足りなかった。証がないのだ。「正蔵には『いつわり』が見えるから」などといった言い分を役人たちが受け入れるとは思えなかった。だから、正蔵は「利兵衛を見たものはいないか」と寄合を開いたのだが、どれだけ待っても誰も口を開かなかった。忌々しいことに利兵衛は誰にも見られずに米蔵に辿り着き、火を放ったようなのだ。このままでは、利兵衛にお裁きが下らなくなってしまう。歯痒かった。平助は膝の上で握った拳を震わせた。火がついたのは納めるはずの年貢米の入った米蔵だった。中の米俵も燃えてしまった以上、翌年植えるつもりだった種籾や食べるつもりだった米をそちらに回さなくてはならない。誰の米をどれだけ回すのか、それを決めるのにも一苦労だ。さらに、身を削ってかき集めても足りなくなってしまうことがあれば、また名主を通じて代官所に御慈悲を乞い、年貢を減らしてもらわねばならない。そのためにも、火付をした罪人はできるだけ早く突き出しておきたい。ああ、今すぐ罪人がわかったら! いや、それはわかっている。いないのはその場を見た者だ。 「……俺は見た」 考える前に口が動いていた。 正蔵が例の眼をぎろりと動かして、利兵衛が眼に涙を溜めて、その他無数の村人たちも平助を……見る。もう後には引けない。 「俺の畑は、知っての通り米蔵の一番近くにある。そこで昼過ぎに、近くの草むらが妙に揺れてるのを見た。その時は風か獣だと思ったが、今考えるとあれは利兵衛……」 平助は「だったかもしれないし、違ったかもしれない」と最後に早口で小さく付け加えるつもりだった。しかし、できなかった。その声をかき消すような大きさで「俺も見た!」という声が別の村人から起こったからだ。 「昼過ぎにこの男は米蔵の方へ歩いていたぞ!」 「俺も見た」とまた別のところから声が上がった。 「利兵衛は松明を持っていた!」 そこからは、幾人もの村人たちが火付の日の昼過ぎに利兵衛を見たと叫んだ。何度も上がる「俺も見た!」という声に、平助は内心胸を撫で下ろしていた。万が一俺の話がまちがいだったとしても、これだけ利兵衛を見たものがいるならきっと平気だ。それに何より、正蔵さんが「利兵衛は『いつわり』を口にした」と言ったのだ。正蔵さんがまことを言うのではない。正蔵さんの言ったことがまことなのだ。平助はそう言い聞かせながら顔と声は厳しく利兵衛を責め立てた。その利兵衛はおんおん泣きながら「俺は知らねえ……米蔵なんか行かねえ……松明も持ってねえ」と言い続けていた。突然、正蔵が彼の胸ぐらを掴み、「見苦しいぞ、この嘘つきめ!」と一喝した。村人たちの中から喝采が上がった。  そのまま利兵衛は裁きを受け、火付の件は終わった。だが、終わった後も平助の胸に浮かんでくる思いがあった。俺が口火を切らなかったらどうなっていただろう。利兵衛は火付として捌かれたのだろうか。そして、その思いは疑いに変わっていく。本当に利兵衛は火付をしたのか。平助は必死になって考えることをやめた。「やましさ」が生まれてしまう前に、何とか心の奥底にしまい込み、今やらなくてはならない数々の仕事に専念することにした。幸いにしてやるべきことは無数にあった。そのまま平助はここまでの年月を過ごしてきた。しかし、今朝になってまたあの時の「やましさ」が表に出てきてしまった。平助は必死でそれをもう一度押し込めようとした。今は山狩りのことだけを考えろ。勢いよく引き戸が開いた。正蔵が家から出てきたのだ。まずい! 今の俺を見られたら、正蔵さんの眼は「やましさ」を「いつわり」を絶対に見逃さない! しかし、正蔵はそこには触れてこなかった。ただ、怪訝な顔をして「何、ぼさっと突っ立ってんだ」とだけ言った。
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