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「お福」
鏡の桜が揺れる。花靄が白く渦を巻く。お福だ。お福がいる。ぽろりと口からこぼれたその名の主を探して、鏡の中の私は目を凝らす。どうしてそんなことをするのか。恐怖なのか興味なのか、あるいは諦めなのか。自分でもわからない。
病に倒れた祖母がいよいよ危うくなったころ、私は毎日鎮守の神社へ行った。十八の小娘にできることなんて神頼みしかない。どうしても私は祖母に生きててほしかった。両親は亡くなっていたし、兄は家を出ていたし、私には祖母しかいない。小さいころみたいに抱っこしてもらうことはもうできないけれど、祖母さえいれば大丈夫だと私は心から信じていた。
お福のことを知ったのはそのときだ。
お宮の宮司さんがみじめな私を案じてお福のことを教えてくれた。
私の家のこと。うちが望月の長者さまと呼ばれていたはるか昔のこと。その当時、雇っていた使用人にお福という娘がいたこと。十四で奉公に来た彼女を望月の主人は手籠めにしたこと。甘い言葉を囁かれ、純情なお福はすっかり夢中になったこと。しかし関係を奥方に知られた男はあっさりお福を裏切り、折檻の末に死んだ彼女を庭に埋めたこと。その亡骸を苗代にしてあの桜が生えたこと。お福の恨みは今も尽きず、望月を末代まで祟るべくずっとあのソメイヨシノの下にいること。
あれはな、自分も呪うとるんじゃ。
望月をながく苦しめるため七代末まで祟る。それを果たすまでお福もがんじがらめなんじゃ。
あんたのばあちゃんは特別や。ほかの望月のもんはみんな亡うなったろう。お福のせいじゃ。次の代になる子を成すと死ぬ。
悦ちゃんと兄ちゃんのことはばあちゃんが守ってくれとる。悦ちゃん、悪いことは言わん。ばあちゃんが亡うなったら、四十九日があける前に逃げ。あんたはばあちゃんに似て気が強すぎる。兄ちゃんはもうおらんし、もともとぼんやりしとるき、平気じゃろう。
あんたと兄ちゃんはお福の恨みを受けた七代目の望月なんよ。
兄がいつ家に戻ったかは知らないが、お義姉さんによると亡くなる数年前らしい。
二人の間に子どもは生まれなかった。もちろん、私にも。望月はこれで終わる。
濁った鏡は一面の花靄。
その向こうに私はお福を探る。
お福。ねえ、お福。あんた今どんな気持ち?やり遂げてうれしい?
私のこと、どう思ってる?男に騙されたバカな女?あんたみたいに殺されないだけマシ?ねえ、どうなの?あんたは本当はどうなりたかったの?ねえ、どうなの?
靄が在る。白いくるぶし。白い手。靄はだんだんと濃く深くなる。
ぴしりと音をたてて鏡に亀裂が走り、私はとっさに目を閉じる。お福。ねえ、お福。鼻腔いっぱいに広がる花の香り。かなたへと誘うあやしい香り。なにかがそっと、私に触れた。
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