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悦ちゃんはいけん。あそこはもう尽きた。
祖母の声がよみがえる。
瞳ちゃんにはキャリアウーマンなんて言われたけど、私はそんな大層なものではない。
十八歳で入った会社でずっと働き続けているだけだ。車や鞄も、独り身ゆえにお金をかけられる。
高度経済成長の波に乗り、あらゆるものが手に入れられたあの頃。私はひとりぼっちで、若く、無知だった。祖母は死に、帰る家もない。喪失感を埋めたのは妻子ある男との恋だ。
寂しさといってしまえば簡単だけど、それだけじゃない。田舎から身ひとつで来たちっぽけな少女にすぎない自分に、都会で出会った大人の男が夢中になっている快感はえもいわれぬものがあった。
相手は会社の上司だ。出会うのが遅すぎただけ。私たちは心から愛しあっている。会うたびにそう言いあったけれど、結局、それを真実だと思っていたのは私だけだった。
私を愛しているはずの男は一向に妻から離れようとせず、やがて私の口から睦言の代わりに恨み言ばかりが漏れるようになると、男はいくばくかの金を握らせて奥さんのもとへ帰った。私の若く美しい盛りを全部奪って。
関係がおおやけになることはなかったけれど、勘づく人もいたのだろう。男は定年退職したが、まわりまわった噂で、残った私は今も社内で疎ましがられている。
「お福」
鏡の中の靄に呟く。
ここからは映るはずがない庭のソメイヨシノが鏡に浮かんでいる。満開の花。風もないのにぼやけた花びらがひっきりなしに舞う。舞い散る花はきりがなく、そうだというのに花もまた尽きる気配がない。
バカな恋に浮かれて、私と男は連れだって桜を見に行ったことがある。誰かに見られないよう明るく開けた桜の名所にはいけず、肌寒い川沿いの日陰の道を歩き、スーパーで買った焼き鳥と缶ビールで乾杯しただけの花見。ひとけのない河川敷にひっそりと立つ一本桜は福桜によく似ていた。
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