特別と言うには大袈裟な日

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なんとか辿り着いた公衆電話の前に立って、私は少しだけ公衆電話に寄りかかり一息つく。挫いてしまった──もとい、転んだことにより捻挫した左足首は無理に酷使したせいか、ズキズキと痛みを増している。こんな痛みに我慢しながら、今度は家に帰らなければいけないのかと肩を落とす。だが今は、そんな先の事を考えても仕方がない。私は忘れられない痛みを首を振って強引に頭の片隅に追いやり、被害届を出す為に電話を掛けようと、財布が入っている鞄に手を伸ばした。 ──だが、鞄など当然ありはしない。あるわけが無い。なぜ私はここにいる? そりゃもちろん、鞄を盗まれた被害届を出すためだ。ならば当然、財布も私の手元にあるわけが無い。 「はあぁぁ──」 長く重たい息を吐きながら、私は膝から頽れた。なにが意外にも頭は冷静だ、だ。冷静だと思い込んでいるだけで、実際は全くもって冷静などではない。ヒールが折れて、捻挫して、お尻も痛くて。下半身のほとんどが痛くて堪らなくて、赤ちゃんにまで笑われて、こんなにも嫌な事象が連続してる中で冷静でいられるわけが無い。私はそこまで出来た人間ではないのだ。 「──あの」 不意に、おずおずとした男性の声が私の耳に届いた。同時に、私の肩に誰かの手が置かれる。少しだけ苛立った気持ちで振り返れば、私の目線にまで屈んだ髪の長い男性がいた。 「やっぱり。だし巻きちゃんだ」 「だしま──ッ?! な、なんでその名前……」 男性の言葉で、私の中に小さな恐怖心が芽生える。それもそうだ。髪の長い男性の事を私は知らない。それに加え、目の前の知らない男性が口にした″だし巻きちゃん″。それは私が毎週金曜日に通っている、居酒屋で呼ばれている渾名(あだな)だ。その渾名は居酒屋の店員しか知らない筈。それなのに、この人は知ってるなんて……──。 私の中で芽生えた小さな恐怖心が少しづつ大きくなるのが分かる。 「だ、だれ……」 「え? 俺だよ俺」 「わ、私……オレオレ詐欺の知り合いはいないです……」 男性は自身を指さし名乗ることもせず、信用するには足りなさ過ぎる言葉を返す。当然言葉にした通り、私にはオレオレ詐欺の知り合いはいないし、髪の長い男性とも知り合いでは無い。では、目の前の男性は誰なのか。私はその疑問を解消しようと、彼の容姿を吟味する。 黒の長い髪の毛に、整った顔立ち。睫毛が長くて少しだけ羨ましい。それに……大学生だろうか。見た目の年齢は十代後半か、二十歳ぐらいで、気だるそうな雰囲気の格好が似合っている。背中にはリュックサックを背負っていて、手には白い鞄を持っていた。そう、白い鞄を──。 「それ……っ、その鞄! 私のっ!」 見覚えがある白い鞄は私の鞄と酷似していた。白、と表現するには少しだけクリーム色っぽく、銀色のチェーンがついている。私の記憶にある鞄と全く同じ鞄である。だが、私の鞄だと断定するには早計過ぎるものがある。しかし、でも……。目の前の男性が手にするにはあまりにも不釣り合いなそれは、私の鞄でなければ誰の鞄だと言うのか。そう思ってしまえば自然、私は彼の持つ鞄に手を伸ばしていた。 が── 「だし巻きちゃん、本当に俺のこと分からないの?」 鞄にへと手を伸ばした私から遠ざけるように彼は立ち上がり、見下ろすようにして私を見る。頽れていた私はへたりこんでしまい、彼を見上げることしか出来ない。 見上げる私と、見下ろす彼。もはや見下されている気さえしてくる私は、情けない気持ちと、ぱんぱんに膨らんだ恐怖心が爆発寸前まで来ていた。 「……かえして」 「え? なに?」 小さくこぼした私の声は彼には届かなかったのか、彼は腰を折って耳だけを傾けるように私にへと訊ねる。 彼が前のめりになった事で、彼の長い髪の毛が私の目の前で揺れた。私はここぞとばかりに、その黒髪を思い切り掴んで、今日一番の大きな声を出した。 「返してって言ってるのっ! ストーカーかオレオレ詐欺なのか知らないけど、それは私の鞄よ……ッ! その中には貴方みたいな学生には到底理解し得ないような大っっ切な書類が入ってるの! だからッ私が警察呼ぶ前に! その鞄を返して!!」 「痛い痛いっ、子供じゃないんだから引っ張らないでよ。それに声が大きいよ。俺が危ない人みたいじゃないか」 「間違ってないでしょっ!」 肩を揺らして深く呼吸をし、私は彼の髪の毛を掴んだまま立ち上がる。その際に左足首が強い痛みを走らせ、私は苦痛に顔を歪ませた。それだけじゃない。彼から見て、私が今にも倒れてしまいそうだったのか、彼の両手がそっと私の体を支えていた。その手が酷く気持ち悪いものに見えた私は、彼の手を払い除け、睨むようにして彼を見る。 「だし巻きちゃん少し冷静になろうよ。この際、俺が誰かはどうでもいいとして、鞄も返すから。足の手当てしよう」 「私は……っ」 ──冷静よ。そう言葉を続けようとして、私は口を噤んだ。彼の言う通りだと思ったからだ。私が変に騒ぎ立てたことで、周りからの視線は転んだとき以上に多い。これでは私が警察を呼ばずとも誰かが「駅で痴話喧嘩している人がいる」などと、何ひとつ当てはまらない通報をされるのも時間の問題だと思った。それに、だ。確かに私は彼が誰か分からない。でも彼は私を知っているし、私の足を心配してくれた。さっきも私の体を支えてくれたし……と。もしかして私が早とちりしてしまっただけで、悪い人じゃないのではないか、と。 「ごめんなさい。確かに……冷静とは言えなかったと思う。えっと、もしかして鞄も拾ってくれた、のかしら」 「うん。何回も呼んだのに全然気づいてくれないから、もしかして俺の声聞こえないんじゃないかって少しだけ不安だったよ」 場を和ませる為の冗談なのか、彼は苦笑いにも似た優しげな笑みを浮かばせる。そんな彼に膨らんだ恐怖心は縮んだものの警戒心を解くことはせず、私は感謝の言葉を述べた。そんな私に向けて彼は再度、俺のこと分からないの? と訊いてきたが、私の答えが変わることはなかった。残念そうな顔をする彼が少しだけ可哀想に思えたが、もしかしたらストーカーかもしれないという疑惑が晴れないからか、やはり心から彼を信頼することは出来そうになかった。 「じゃあ……あの、鞄。ありがとうございました。私このあと用事がありますので、そろそろ鞄を返していただけますでしょうか」 「用事って駅前の金魚だろ? いいよ。俺もこれからバイトだし鞄持ってるよ。それと裸足じゃ危ないから、大きいと思うけど俺の靴履いてて」 そう言って彼は履いていた靴を脱ぎ始める。彼の優しさのような行動にも驚いたが、ストーカー疑惑が拭いきれない今、私が行きつけの居酒屋『金魚』の名前を知っていることも、私がその場所に行こうとしていることも把握されていて、やはり少しだけ怖いと思った。
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