陳 宮

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陳 宮

 華陀(かだ)とタケルを家の中に案内した陳宮(ちんきゅう)は、食餌(しょくじ)の膳を自ら整えた。残り物しかないが、強飯(こわいい)と豆を煮た(あつもの)を椀に盛って差し出した。 「おお、こりゃあ、じつに、香りがいいのぉ」  華陀は鼻を近づけながら、嬉しそうに微笑んだ。食欲というより、この神医はおそらく素材の香料系の植物の種類に関心が移っていたようだった。  タケルは両の手で椀を抱きかかえるように包み、それを目の高さまで持ち上げると黙礼してから口に運んだ。食する前にタケルがなにやら(じゅ)を唱えているのをみた陳宮はいきなり出身地を訊いてきた。  タケルは、あの牢の中で華陀や張飛に伝えたとおりのことを告げた。 「……東方の国から……とな? ふうむ、一字でない国名とは珍しい……」  ぼそりとつぶやいた陳宮はじっとタケルから視線を離さない。  ……この大陸では、通常、国名は必ず一文字で表わされる。二文字以上の国名は、蕃夷(ばんい)の国に他ならない。  東夷(とうい)西蛮(せいばん)……という。  西蛮はともかくとしても、東夷とは、東方の蛮夷の国々のことだが、実は、もっと古い時代、漢王朝よりさらに古い時代には、〈東夷〉という文字には、どうやら神仙が棲む崇高な地域……という思念がその根底に含まれていたようで、単に野蛮、未開といった表層上の意味だけで済まされることではない。  東夷(とうい)という文字は、侮蔑(ぶべつ)だけではない、(おそ)れに似た感情をも含ませた二字なのである。  とりわけ古書故事に詳しい陳宮はそのことを知っている……。 「……なんと、曉山(ぎょうざん)(おもむか)れるというのか……はて、それは……」  語尾を濁しながら陳宮はちらりと華陀の反応を探った。華陀ほどの人物が、よもや曉山が実在すると信じているわけではあるまいと疑ったのだ。  生来、陳宮は深読みしすぎる癖があって、〈曉山(ぎょうざん)〉は、タケルが別の何かを象徴させた隠語ではないのかとも考えてしまったのだ。  ところが華陀は(あつもの)をすするのに余念がなく、陳宮に無言の問いを向けられても気づかないふりに徹している。 「陳様……お教えいただきたいことがあります……辰国(しんこく)とは、いかなる国柄(くにがら)なのでしょうか?」  タケルが問うた。 「なに、(しん)とな……。そなたはすこぶるお若いように見ゆるが、なぜにまた辰国のことを存じているのだ?」 「は、張兄(ちょうけい)がめざしているのが、その辰国らしいのです」 「張兄とは?」  ……張飛のことである。 「おお、話にあった蛙跳びになった青年ですな。ま、夜が明ければ一緒に捜しにまいりましょう。おそらく、湖のそばで寝ておろうほどに……。にしても、辰国は遼東(りょうとう)半島と関わりが深いと伝え聴く……幻の国だが、曉山よりは、見知っている者はいるかもしれん」 「遼東……ですか」 「この地よりもさらに政情は混迷しておるであろう。行くのは勧めることはできぬな」 「陳様は……いずこをめざしておられるのでしょう?」 「先ほども言った……大守(たいしゅ)でなくても、このさい土豪でも野賊でもいい、大志と気概がある方の軍師として身を立てたいとおもってきた。……いまは行方不明の奉孝(ほうこう)とともにな」 「奉孝……という御方は、陳様にとっては大切なひとなのですね」 「いや、そなたとほぼ同じ年頃にみゆるぞ……明日、そなたらの連れの蛙男を捜したあと、ともに奉孝を捜しに東へ向かおう」  ……東には王宮の景園(動物園のようなもの)跡があり、そこに根城を構える賊どもがいて、おそらくさらわれた女子供と一緒に奉孝もいるにちがいない、と陳宮は言った。  「いやむしろ、あの奉孝のことだ、すでに賊どもを退治して、捕縛しているやもしれぬぞ」  陳宮はいう。そう信じたいという思いではなく、心底、奉孝が持つ異能に期待しているようである。 「それは……どのような能力なのでしょう?」  タケルが()いた。どうしても知らずにはおられなかったのだ。自分とほぼ同年齢らしい奉孝という存在の輪郭だけでも掴んでおくことは、この先どこかで役立つにちがいないといった計算もあった。 「ふむ、言詞(ことば)にするのは、なかなかに難しいが、方術(ほうじゅつ)といっていいのか、神仙術とでも()べはいいのか……武器は、大きな(おうぎ)……拡げれば、そなたほどの背丈(せたけ)ならば、全部隠れてしまうぞ。ほっほ」    さもおのが()の才能を自慢するかのように陳宮は思わせぶりにタケルを驚かせた。 「大扇(たいせん)……ですか?」 「そうだ、きっと驚くぞ。どうだ、そなたも奉孝と義兄弟にでもなって、わしを手助けしてけれるとありがたいのだが……」  どうやら陳宮は多くの若者たちを自分の配下に組み込む算段をしているらしかった。名君探しの旅を続けると陳宮はいうが、配下が大勢いたほうが自分を売り込むのに役立つのであろう。このあたりは張飛とも似ているが、直情的な張飛とは異なり、陳宮には計算高いところがありすぎるようにもタケルには映る。もっともそれを隠さないのが、陳宮の文人たる誇りのようにも受け取れた。 「……わしは」と、口をはさんだのは華陀であった。 「……ここに残り、傷ついた者らの手当をしよう。道具の修繕もせねばならんからの」 「おお、ご神医がここに居てくだされば、ありがたい……刀傷で動けない若者も数多くおります。治癒していただければ、いずれ得難い戦力になりましょうから」  頷いた華陀は、タケルに目配せをした。食後の後片付けをしろ……ということであろう。  そうと気づいたタケルは黙ったまま椀を集めて外に出た。  雲はなく星が(きら)めいている。  獣の遠吠えが遠くから澄んだ空気を()いてタケルの耳朶(じだ)を震わせた……。    
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