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巨大蛙
風が湿気を帯びている。
眼前には葦が覆い茂っていて湖面は見えない。
この都市がまだ盛旺なりし時に罪人を動員して造らせた人工湖であるらしい。
タケルが佇んでいるのは湿原との境界にあたり、この先は進めないと判断し、立ち止まらざるを得なかったのだ。
まだ巨大蛙になった張飛の姿は目にしていない。陳宮によれば一晩でもとの姿に戻っているそうだが、視界にはそれらしい人影は入ってはこない。
「葦のなかに倒れているやもしれぬ……調べてみよ」
陳宮が命令した相手は、タケルではなく、従えてきた若者五人である。それぞれ手や脚に傷を負ってはいるものの、かろうじて歩行には難はなく、剣もつかえるようだが、腕のほどは分からない。
もともとの従者ではないらしく、民家を回って陳宮が捜し出してきたようである。どうやら陳宮は、人助けというより、やはり自分の家来として組み入れることを優先させているようであった。すでにタケルをおのが部下のように扱っていた。
そのことに不快感を抱く前に、タケルは敵の襲来に備え気を引き締めている。四方をまんべんなく注視していた。
「そなた……武器は持たぬのか?」
不審げなまなざしを隠すことなく陳宮はタケルを見ている……。
「あ!」
タケルは親指大の剣を出し、呪を唱えた。
陳宮が瞬く間に、剣は長大化し、それをタケルはしっかと握り直した。
……天叢雲剣。
この大陸では、どうやら断竜斧と呼ばれているようである……。
「な、なんと! それは……」
陳宮は受けた衝撃の強さを悟られまいと、慌てて咳払いでごまかした。そうまでして大人ぶるのは、かれの強みであったか、それとも弱みであるのかはタケルには判ない。
「……神器の類か!」
「あ……わたしの国では神宝として祀られておりました」
「そのような貴重なものを、どうしてそなたが?」
「はい……護身符の代わりです」
短くタケルが答えた。
たとえ詳細を述べ立てても、陳宮には理解できないだろう。相手の芯奥に潜むその人足らしめるなにかがタケルには伝わるのだ。
そのことを口で説明するのは無理というものであったろう。
さらに何ごとかを告げようとした陳宮を遮ったのは、配下の若者たちで、
「ここに誰かが仰向けに倒れているぞ」
「大きなからだです……」
と、口々に叫んだ。
すかさずタケルは駆け寄った。
「あ……張兄!」
張飛である。
水嵩がもう少しだけ高ければ、溺れて窒息していたかもしれない。
半身を起こし、タケルは張飛の口に小さな薬玉を強引に押し込んだ。
「ぎゃ、ああっ、なんだ」
咳き込む張飛の顎を手で支えたタケルは、さらに薬玉を口に含ませた。
「華佗様が造ってくださいました。必ず飲ませろと……噛むと苦いようなので、そのまま呑み込むといいそうです」
「おっ、タケルかっ! 義弟よ、助けに来るのが遅すぎるぞ!」
無理やり義兄弟にさせられたタケルは、それでも抗ず、
「すみません……準備に手間取りました。一体、何が起こったのですか?」
と、答えた。
「何が? おまえもその目で見ていただろ? 宙を白馬が走っておった……なにやら赤い髪の長い老婆が乗っておったぞ。おれはそれを追いかけていっただけだ」
「白馬……老婆? 張兄には大蛙になった記憶はまったくないのですか?」
「なにぃ? 大蛙? おまえ、気は確かか?」
逆に張飛から正気を疑われたタケルのほうが驚いた。けれど白馬に乗った赤い髪の老婆……と聴いて、タケルはハッと気を締めた。自分もあの牢内に閉じ込められる以前、たしかに視たのだ、空を翔ける白馬を……。けれど、あのとき乗っていたのは老婆ではなく、確か首が二つある男であったはすである。闘おうとして気を失い、タケルが気がついたときにはれいの地下牢の中にいたのである……。
「老婆でしたか……あ、陳様……陳様も巨大蛙になったと聴きましたが、そのとき、何かを見たのでしょうか?」
近づいてきた陳宮にタケルが訊いた。
「ふうむ、みたような見なかったような……よくは覚えておらぬのだ。この男が、張飛というおまえの義兄なのか?」
「はい……」
タケルは張飛を陳宮に引き合わせた。互いの名を伝え、ざっと経緯を告げた。
「陳兄……」と、意外にも行儀よく張飛が挨拶したのは、それなりの人物だと直観したのだろう。
張飛は目上の者として自分が認めた相手にはすこぶる従順になるのだった。
……湿原で発見されたのは、張飛だけではなかった。老若男女、合わせて二十八人が無事に生還した。
それぞれが口にしたことは微妙に異なるのだが、半数以上が、
「白馬に乗った老婆を見た……赤色の髪だった」
と言い、十人が、
「いや、乗っていたのは二つ首の小さな男だった……」
と、証言した。
もっとも誰も胸を張って断言した者はいなかった。
しかも生身に傷を負った者はおらず、やはり華佗が看破していたように、
『妖魔の悪戯……』
なのだろうか。
タケルには不審が増す一方だった。
なぜなら、この臨淄という地点と、最初にタケルが飛んでいる白馬をみた場所とは、徒歩にして約十日の距離差があって、それほど離れているというのに、他の者が臨淄の外ではなぜ白馬を見ないのか……といった単純な疑問であった。
臨淄までの道中で、白馬に関わる噂は一度も耳にしていなかった。
さらに、あの牢獄の謎がまだ解明されていないのだ。
当初は地下牢とおもっていたが、生き物の体内ではなかったろうかという疑義はいまだ強くタケルの頭裡に残っていた。これについても華佗はどういうわけかその詳細をあやふやにしたままで、それを深く突き止めようとはしないのだ。そのことも不審を掻き立てる一因ともなっている……。
「おいっ、どうしたぁ、……おまえはたまに突然意識が飛ぶようにみえるぞぉ」
張飛の声がタケルの胸に突き刺さった。遠慮のない張飛のことばは、往々にして鋭い刃に勝るのだった。
「あ……」
「うーん、うまく、言えんが、ここに在って、ここに在らず……といったふうだぞ」
「そうですか……ほんの一瞬ですが、考え事をしていました」
「だからそれが駄目だというのだ……な、いいか、丈夫というものはな、考えるよりからだが先に動く……な、からこうでなきゃいかんぞぉ。あれこれと理屈をつけて考えるのは、歳を重ねてからでいいぞ…」
張飛の率直さは、側で聴いていた陳宮にも叱咤の声として届いた。
「やあ、これはこれは耳に痛い……わしが責められているような気になってしもうた」
と、陳宮が苦笑した。
「……いや、なにも陳兄のことを申したのではないぞ」
「ああ分かった、わかった……それより、この先、さらわれた女子どもを取り返しにいかねばならぬ……張どのにも助力を請うてよろしいか」
「おお、いいとも、いいとも、お任せあれ……や、なんとしたことだ、せっかく掻き集めた刀剣を奪われたぞぉ」
いかにも口惜しげに張飛は地団駄を踏んだ。かれだけでなく、助けた者はみんな一様に武器の類を剥奪されたようである。
「オレを蛙にしたやつらは、われらの武器を奪うのが目的だったのかぁ」
と、張飛は言ったが、がらくた同然のものをわざわざ演出めいた手法で奪うものがあるともおもわれない。すくなくともタケルにはそうおもえてならない。
「おいっ、義弟よ、おまえの神剣を義兄に譲れっ!」
義兄弟の縁を無理強いしたのは、タケルの剣を横取りするためであったのかどうか……張飛は強引に言い放った。
「いえ、それはできませぬ」
「なにぉっ、義兄の立っての頼みを断わるとほざくかっ」
「なにも惜しんでいるのではないのです。この剣は……わたしの国の神器……たとえ張兄に強要されようと従うわけにはまいりませぬ」
「ふん……ま、そういうことならば、よしとしよう。おまえのいのちのようなものだと言いたいのだな?……なるほど医仙も驚いていたからな……隕鉄でできた……ええと、名があったな……だん……」
「はい、華佗様は、断竜斧、と申されておられました」
「な、なんと? いま、何と申した?」
いきなり横から口を出したのは陳宮であった。タケルが復唱すると、ひゃあと陳宮は尻餅をつきかけた。
それほど驚いたのである。
「断竜斧……が、そなたの手に……しかも鯨面……ひゃあ、ま、まさか、そなたが……!」
突然狂ったような陳宮の物言いに、張飛とタケルはおもわず互いの顔を見合わせた。
「陳兄……どうしたのだ?」
張飛が訊くと、
「ほ、ほ、奉孝がっ!」
と、陳宮が答えた。
……とはいえ何のことか二人にはまったく伝わらない。
咆哮しているのは、むしろ陳宮のほうではないか……。
「ずっと以前に、奉孝が、見た、そうだ……鳥を……」
「鳥?」
と、張飛はあきれ顔になった。真顔は陳宮だけである。
「……いや、鳥と剣、を見たそうなのだよ……巫女らしき者が、少年に剣を渡していたのだそうだ……少年の顔には入れ墨があって……」
「なぁんだ、その奉孝という奴は、その場にいたんだな。タケルの同胞なのか?」
「違う、そうではないっ!」と、力強く否定したのは……タケルではない。興奮した陳宮が唾を呑み込みながら言い添えた。
「当然、この国でのことだ!……奉孝は自分の家の庭で、見た……と、かれが言っておったぞ……し、しかもだ、その折に、みた少年の名は……たしか、タケルと言っておった。まさか、目の前のそなたのことだったのか……!?」
陳宮がタケルに注いだまなざしには、ますます未知の魔物と遭遇したかのごとき光が宿っている……。
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