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模 索
郭嘉……字を奉孝という。
陳宮がかれのことを殊の外案じていたのは、自分より十歳以上も年若であるのに向学心に燃え、その純粋ともいえる正義感や対象との向き合い方に感銘していたからであり、あわよくば弟子として長く自分に仕えさせたいとの思惑もあった。
……その奉孝がようやく書肆に親しみはじめた頃、鳥と断竜斧を視た……のだそうである。
旅の途中で奉孝から聴いた記憶が、いまだに陳宮の頭裡に色濃く残っている。
「……ならば、奉孝という奴は……巫師なのか?」
張飛がいった。意外と張飛は物識りである。
「……おれは物心ついた頃から世間の荒波の真っ只中を泳いできたからなあ」
と、いうのがいつもの張飛の口癖である。
……張飛が言った巫師というのは、巫女の男性版だとおもえばいい。ときに、符師、ともいう。
突き詰めればその存在形態と所有する能力はかなり異なるのだが、いずれにせよ、人知では捉えきれない何かの感得力と防御、攻撃力を保持した稀有なる存在といっていい……。
陳宮は、奉孝が尋常ならざる秘めた魅力を持って生まれたらしいことは認めたものの、はっきりと奉孝のことを巫師とは断定しなかった。
「……ともあれ、奉孝はそなたを……異国の少年をはっきりと視た……のだ、おそらくな。詳しくは、かれと会ったときに直接たずねるがよかろう」
早口でごまかす陳宮に、張飛はまだ食い下がった。
「そんな力を持っている奴なら、どうして、女どもと一緒にさらわれたんだぁ?」
「ん……? それは……」
陳宮が口ごもると、珍しくタケルが口をはさんだ。
「おそらく、敵の本拠地を確かめるため、その方は、わざと自分からつかまったのではないでしょうか」
「おおっ、なるほどな。さすがはオレ様の義弟だ。たしかにそうとも考えられるな。陳兄、その奉孝という奴は武器を携えておるのか?」
「何? おお武器か……奉孝はそれなりに剣をたしなむが、まだおのれの剣は得ていないようだ。昨夜、タケルにも話したが、大きな扇をつかう」
「扇? おとこがそんなものを武器にしているのか?」
「鉄の大扇だよ……相手の剣をパシャと受け止め、さらには刀剣をへし折ることもできるぞ。それに……ひとたび扇を開けば……蝶が舞うぞ」
「な、なにぃ?」
張飛もタケルも意味が分からない。
蝶が舞う……というのはなにかの比喩なのだろうと二人はおもった。けれど、陳宮は、こう告げようとしたのである……ひらいた扇から数十、数百匹の蝶が舞い飛び出し、敵の顔にとりついて刺す……のだと。
実際、陳宮はそうやって奉孝が賊を倒した光景をかつて見たのだった。とうてい信じられない不思議な技、神技とも形容してさしつかえないものが存在したことを知っていたからこそ、タケルが剣を自在に縮小拡大したのをみたとき、驚愕こそすれそれほど陳宮は畏れなかったのだ。
一度、不可思議と直面した経験が、陳宮をして目の前のタケルの不思議な能力をも受け入れさせたともいえた。
このとき陳宮は大扇と蝶の話をそこで止めた。
思わせぶりに伝えることで、奉孝の存在価値というものを、より高めてやろうといった計算も働いていたようだった。
「じゃあ、さっそく、救出に向かおうぜ」
気がはやる張飛は、奉孝という奴も、この陳宮から奪って、自分の義兄弟にしてやろうと思っていたのだ。
ところが、
「待ってください!」
と、タケルが張飛を抑えた。
「どうしたぁ、おまえ、どうも顔色がくらいぞ」
張飛が言ったように、タケルは渋面のまま唇を噛み締めている……。
「気をつけてください……この湖には……なにかが潜んでいます……」
剣を天に向け高く突き出したタケルの姿をみて、張飛は両手に鉄剣を握った。慌てて地に伏せた陳宮は、後方に居た若者たちに向かって、
「剣をとれ! 戦えないものはひたすら走って逃げろっ!」
と、大声を発した。
タケルは呪を唱えつつ、いきなり、剣を逆手に握り変えると、グサッと地に突き立てた。
その瞬間、獣の遠吠えのような地響きがした……。
あたかも大地が雄叫びしたような轟音であった。
たちまちタケルの剣が青白い光を帯びた。
大地の音とともに紺碧の光が波打つようにしゅるしゅると地を這っていき、そこにとどくや否や湖面をぽんとふたつに切り割り裂いた……。
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