湖 底

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湖 底

 ……湖面が割れたのだと誰もが目を疑った。ただ一人、タケルだけは冷静であった。  なぜなら、タケルの持つ剣が招来した事態だったからで、かれだけは湖面が裂けたのではないことを理解している。おそらく湖底から盛り上がってきたが、右と左に湖を分けたにすぎない。 「ん……! な、なんじゃ、ありゃあ!」  半身を起こし、さらに立ち上がった張飛が、も一度ぐぃと背伸びをした。盛り上がったもの……は、石段のようである。 「な、なにぃ、また、地下へ行けというのかぁ。あのときと同じような牢が並んでいるだけじゃないのかぁ」  張飛だけではない、タケルもついそんな連想をしてしまい、気持ちがぐらつきかけていた。 先刻(さっき)、タケルが感得した悪寒をともなった負の霊識(れいしき)は、いまだその石段の下方にとどまっているようだった。  今しがた天叢雲剣で祓浄(ふつじょう)したはずなのに、依然としてとどまっているのは、どういうことなのかをタケルなりに考え直そうとしている……。 (やはり、異国だから()かないのか……)  (いな)、とタケルはすぐにおのれの速断を打ち消した。妖魔、あるいは霊識には国境もなにもないはずである。 「あそこへ行くのか?」  幾分声を落とし気味に張飛が訊いてくる……。ハッとしてタケルは、再び迷った。本来ならば一人で向かうべきだろうが、張飛の怪力と度胸は危急時には案外役に立つはずである。 「張兄……ともに行ってくださいますか?」 「ん……? おまえが行くというのなら、仕方がない、おれが行かずば義兄(あに)としての面目(めんぼく)が立たぬからなあ」 「わかりました……では、できるだけ剣、刃物を集めてください。()びて使い物にならないものでもいいので……」 「ん……? 一体、それをどう使うのだ?」 「短い間かもしれませんけれど、霊識()けにはなるでしょうから……。それと、陳様、残った者を率いて、後方で待機してください。できれば、水をのぞいて欲しいのですが……」 「水を抜け、ということか?」  居残り組になったことでほっと安堵した陳宮は、それでも表情を強張(こわば)らせたままである。 「あ、なるほど。人工湖だから、水を川に逃がす装置を探せ、ということだな?」 「はい、陳様、お願いできましょうか」 「ああ、なんとかやってみよう。職人ではないが、これでも建造物の構造には少しばかり興味があるでな。石段が現れたとなると、その前方か後方に仕掛けがあるやも知れん」  うなづいてから陳宮が若者らに声をかけた。かれらから没収した剣や(おの)(まさかり)を麻袋に詰め込み肩にかついだ張飛は、一番長い剣を杖代わりにして躰を支えた。  タケルは華陀から渡されていた火打石で、小枝を束ねて縄でくくった(ほうき)に火をつけた。(あか)り用だけでなく、これもまた悪障(あくしょう)除けになる。  準備が整ったことを互いに目視してから、二人は石段へ向かった。   タケルは左手に箒を持ち、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)逆手(さかて)に持って刃先を地につけたまま引き摺っていく……。  その奇態をみた張飛は何かを言いかけたが、すぐに口を閉じた。  いまは冗口(じょうぐち)を叩いている余裕はない。  一歩進むごとに、脚が重たくなっていく……。  さすがに張飛でも担いだ袋を放り出したくなったが、不平を口にはしなかった。  どうやら脚が地に引っ張られるように重く感じていたのはタケルも同様であったようだった。  張飛は、タケルが呪文を唱え出したことに気づいた。意味はまったく不明でも、幼児をあやす子守唄のような懐かしい音調だった。すると、急に足の運びが軽くなったことに張飛は気づいた。  そのまま二人は黙したまま石段を降りはじめた……。  石段がなくなったことを確かめると、タケルは(ほうき)を高く突き掲げた。火はついてはいるが、炎はさほど上がっていない。  華陀から預かっていた秘薬をまぶしておいたので、ただ燃えるのではなく、放たれる明かりが四方八方に届くように調整しているらしかった。不思議におもった張飛は、それでも華陀の神技だとすんなりと納得し、なにも口には出さなかった。 「さらに奥へと続いているようです」  タケルが先導し歩き始めたとき、張飛の息が急に荒くなった。タケルは斜め越しに、 「袋から剣を出してください……」 と、指示した。  どうやら集めた剣は悪障を(はら)うどころか、かえって張飛の動きを制約しているようだった。タケルには分かる。おそらく、急に重たくなったのであったろう。敵の種別によっては、こういった反作用が起こることが、(まれ)にある。  そういう場合には臨機応変に処することしかできない……。 「やあ、よかった……オレ様の頭の先から足の爪先までが痺れてきて、も少しで動けなくなるところだったぞ」 「気づくのが遅れました……出した剣を……」  と、言いながらもすでにタケルはそれぞれの剣に、天叢雲剣をあてた。すると、一瞬だが、そのつど青白く光ったように張飛の目には映った。  タケルは、七振りの剣を次々に地に突き立てていく……。 「おれも、やろうか」  珍しく張飛が言うと、タケルは首を横に振った。なにか手順というものがあるのだろうと張飛はあえて口を出さない。無言なのにタケルの唇がもごもごと動くのは呪文を唱えているからであろう。それと察して張飛は手を出さなかった。  使ったのは七本だけで、(ひざまづ)いて余った剣を調べ出したタケルは、四本だけを手元に残しあとは壁脇にぽいと無造作に放り投げた。  それぞれ二本を左右の腰に差した。  タケルの手には、天叢雲剣と箒。張飛は長剣を手に握っている。  ふたたび二人で歩き出した。  それまで躰に覆いかぶさっていた重さが()き消えたのだろう、張飛の足取りは軽くなったようである。  二十歩ほどで広い空間に出た。  四隅に松明(たいまつ)台があった。どうやら儀式の時に使う神殿のようである。すかさず箒を松明台にあててタケルは次々に火をつけた。 「ひゃあ、ここは、なんだぁ」  壁一面に刻まれていたのは、巨大な牛の頭、胴体は蛇で……足は……人間の手そのものが描かれていた……。なにを象徴させたものなのか、二人には分からない。  しかも、胴体の蛇の紋様がそれぞれ人の顔になっている。  「ぎゃあ、いま、か、顔が動いたぞぉ、こちらを睨んだ、笑った、泣いた……」 「腰の剣、一振りを手に……」 「おぉ?……おお、一本抜けばいいのだな」 「いえ、わたしと同じように、剣と剣を交叉(こうさ)させてください……」  タケルも腰にはさんでいた剣を抜いて天叢雲剣と交叉させた。  右から左へ、斜め、下、上……と、その奇妙な動きを真似て張飛も続いた。  その動きはあたかも剣舞(けんぶ)のようで、また幼児のじゃれ合い遊びのようでもある。  けれど張飛は何も言わない。  自分のほうが義兄(あに)であろうと、この場ではタケルの指示に従うほかはなかった。  と、突然、壁が動き出した。  けれど音はない。  揺れの振動だけがタケルの体躯に伝わってくる……。 「退()がって!」  タケルが叫ぶと、張飛は、 「う、牛が……」 と、剣先を壁に向けた。  見る間に巨大な牛の頭だけが壁から飛び出し、口からべたべたと(よだれ)を垂れ流しながら揺れていた。  ……その牛の頭が喋った。 「おまえたち、人身御供(ひとみごくう)だな。ひょほっほ」  突然、どたんと、音がしたのは、張飛が尻餅をついたからである。タケルも唖然(あぜん)として、口を開きかけたとき、牛の口から噴水のように白い液が飛び出した。 「や! 剣で口を(ふさ)いで!」  タケルが叫んだ。  けれど時すでに遅し……大きく開いた張飛の口の中へ、白濁の液が怒涛(どとう)のごとく流れ入った……。
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