箒 灯

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箒 灯

 ……張飛がのたうち回る姿を()ても、タケルは見向きもしない。  できなかったのである。  牛男……の胴体の蛇の鱗がぽんと(はじ)かれると、宙に浮いたままタケルの目の高さで停まった。ひとの顔である。  眉毛と瞳はある。  鼻がない。  唇は……二つ。  タケルの脚は動かない、動けない……剣を握る右手の力を一度抜いた。半びらきにし、も一度握り返す。  (じゅ)の代わりである。  口を開くことを避けたのはタケルなりの咄嗟(とっさ)の判断で、相手の出方を待つしかないと覚悟を決めた……。 「おやおや」  目の前のが開いた。 「……なんとまあ、身動(みじろ)ぎ一つしないとは……おまえは、いったい何者だ!」 「・・・・・・」  タケルは答えない、いや、答えられない。口を開けば、牛の頭のほうの口から大量の涎が流れ込むだろう、ここはやはり敵の攻撃を避ける(みち)を探るほかあるまい。 「ん……口がきけぬのか……おお、そうか、警戒しておるのだな! なんとまあ、頭の良い奴よ」  が言うと、もう一つの口が開いた。かなり甲高い響きだった。  性があるとすれば一方の唇は女……的といえるかもしれない。  が、タケルと張飛をそっちのけで会話をしていた。 「あれれ、約束の人身御供は……女のはずだわよね!」 「そりゃそうだが、こやつ、妙な術をつかいおる……それを見極めねばならぬぞ」 「そんなことはどうでもいいわ、おなごはどこにいるのさ。まさか、連れてきていないのかしや。約定(やくじょう)(たが)えれば、ただではおかぬぞぇ」 「そう焦るな……こやつ、のように男装しているおなごかも知れんぞぉ!」 「なら、服を脱がしてやればいいのさ」  そんなことをは、喋り合っていた。この(かん)、タケルはじっと聴き耳を立てている。  すると妙なことに気が付いた。ふたつのがものを言っているときには、牛男……はまったく動かないのである。 (読めた……)  と、タケルは悟った。  いま、目の前で繰り広げられている一連の事象というものは、おそらくは誰か他の人物なり悪障なりが見せている幻影にすぎないのではないのか……。  が喋り合っている(すき)()って、壁画の胴体、すなわち蛇身の(うろこ)の剥がれた一箇所、そこだけが人の顔をしている一点を目がけ、タケルは勢いよく剣を投げた。  その天叢雲剣が突き刺さったと同時に、壁画の足にあたるひとの手が浮かびあがるとそのまますたすたと蛇身と牛の頭を引き摺って奥の通路へ去っていった。  倒れたままの張飛は、まだ意識は戻ってはいないようである。かれの鼓動を確かめ脈を診た。華陀から渡されていた薬玉を掌で潰し、張飛の口と鼻の穴の中に放り込んだ。  そのまま寝かせたまま、余分な剣三振りを張飛の頭、両肩の近くに横たえ、天叢雲剣の切っ先を添えた。   穹蒼(きゅうそう)色の光が、三本の剣に移った。これが張飛を護ってくれるにちがいない。  さらになにごとか呪文を唱えると、タケルは一人で同じ奥の通路へ向かった。このままでは捨て置けない。相手の正体を突き止め、必要とあらば祓浄(ふつじょう)せねばなるまい……。   タケルは灯代わりの箒を背から後腰にかけて紐で結び、中腰の姿態のまま追っていった。 (やはり……) と、タケルは感得した。  その狭い空洞は、どことなく、最初に華陀や張飛と出会ったあの牢の中に似ているのだ。 (……何者かが、それとなくどこかへ導いているかのようだ。一体、これは……)  それはまだ確信するには至らなかったが、意図的な誘導のやり方だろうとタケルはおもった。  まだ先は長い。  これほど精巧な建造物を造らせたものは、大量の労力を長期間に渡って提供せしめた大権力者であったはずである。その謎は深まるばかりだが、いずれにせよ、いまは、前へ前へ進むしかない……。  洞穴(どうけつ)……といっていいのか、隧道(ずいどう)と呼んでいいのかタケルは知らないが、延々と続く(みち)をひた走るのは、単調な時刻の流れとの闘いでもあったようだ。同じ光景を、背負った箒灯(ほうきび)が次々と映し出していくのは、それはそれでタケルが今まさに生きている証でもあり、永遠に続くかと思われても、(みち)には必ず果てというものがあるはずである。  よしんば元居た地点に戻されようとも、それはそれで、辿り着いたことにほかならないのだ。 (それにしても……)  タケルはひた走りながら考える。……徐々に洞穴に充ちつつあった、あるにおいを嗅いだからである。  進むにつれ、それは濃厚になりつつあった。  決して不快な臭いではない。  けれど、ちょうど臨淄(りんし)に辿り着いたときに同じにおいを嗅いだことを思い出していた。  あまやかな心地よさすら誘うような匂い……。  あのとき、華陀は、 『気を()めよ』 と、忠告してくれたはずである。『妖魔のにおい……』とも言っていた。  タケルは腰に巻いていた布切れをはずし鼻を(おお)って頭の後ろでくくった。もう散々吸っているはずだから、それは呪を唱えて、体外に放出させるしかない……。 (ん……? またかぁ!)  剣を目の高さで地と平行させて持ち、襲来に備えた。  あの、かつて地下牢のなかで体験したである……。 (やはり、最初の牢での出来事とこの洞穴はなにか関わりがあるのだ……!)  すばやくタケルはそうと察した。  余人ならば、狭い洞穴のなかを走り寄り来たる炎に度肝を抜かれることであろう。  けれど一度その冷たい炎の襲来を体験しているタケルには通用しない。  むしろ、炎というものは純粋の極みにある存在といっていい。触れる者を焼き尽くす……ことには、相手の身分の高低、富貴の強弱、人種や出身国によってなんら区別はない。いわば平等の象徴……という一面も、炎は併せ持っているのだ。  しかも、冷たい炎なのだ、おそらく焼かれるのは、肉体などではなく、もっと内面奥深くの意識であるとか思念の基点たるべきものではないのか……。  と、タケルはそんなことに思い至っていた。 (ひとの霊識を焼こうとしているのか……!)  であるならば、この冷たい炎に身を(さら)せば、未亡者(いきるしかばね)になって、相手の意のままに操られるのではなかろうか。  ……タケルは、母国、ヤマトでも未亡者を退治した経験が何度もあった。それは八体の巨人の未亡者(いきるしかばね)たちで、いつも一緒に居たので、八大未亡鬼(はちだいみぼうき)とも、また八岐大蛇(やまたのおろち)……とも呼ばれていた。そのときに倒せたのはタケル一人(いちにん)の力ではもとよりなく、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の効力であったろう。  いま、タケルの頭裡には八岐大蛇(やまたのおろち)と対決したときのありさまが彷彿(ほうふつ)としてよみがえってきていた。その想念が見えぬ波形となって、迫り来る冷たい炎に立ち向かっていったことを、タケルは知っていたであろうか。 (おや!……炎が……退()いていくぞ……)  タケルは視た。  さながら人ならば、慌てふためいて逃げていった……と形容してもさしつかえないほど、その異変は突発的に起こった。 (華佗様から預かった箒灯(ほうきび)のおかげだ……)  素直にそう思い、神医に感謝した。独りの力では何事も成し得ない。タケルはこの場には居ない華佗や張飛、果ては陳宮までもが想念として護ってくれているのだと思い、感謝の念を捧げつつ足早(あしばや)に駆けていく……。  ふいに洞穴に外から明るい光が()し込んできた。  もう洞穴……ではなくなったのだ。  同時に甘い匂いがタケルを包み込むように舞い寄って来た。  そこは、視界一面、鮮やかな色彩が浮き出ている花畑であった……。
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