花と蝶

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花と蝶

 花はどうして咲くのか……と、そんなことをある時期、タケルは夢想していたことがあった。それはまだ世界の広さ深さ厚さというものを感得できていなかった頃で、三年の歳月をかけてようやく辿り着いたかれなりの結論は……花は自らの意思で咲くのではない……ということである。  天の時、地の利というものもあるだろう。しかしながら、なによりも花を花()らしめているのは、人の憎悪というものではないのか、とおもうのだ。対象が誰であれ、憎しみや(ねた)み、(うら)み、(つら)み、(いきどお)りや怒りなどのさまざまな負の感情こそが(つぼみ)のなかに宿り、生長させ、増幅させ、やがて咲く(もと)素になる……それはタケルなりの着想にしかすぎなかったが、いま、目の前に咲き誇る花の群れをたとき、そこかしこに漂える醜悪なる感情の渦を感じた。  だから動けない。  あと一歩が踏み出せないでいた。  しばらく佇ずんでいたタケルは、人の気配を感じ取った。 (たしかに居る……誰だろう……)  それは妖魔でもなく魔物の霊識でもない。  明らかに人間……の気配であった。  その区別は、突き詰めれば哲学的昏迷(こんめい)へと(おちい)ってしまいかねないのだが、漠然(ばくぜん)とながらタケルには判別できる能力があった。ヤマトではそれは魅力(みりき)とも法力(ほうりき)とも呼ばれていたが、タケルは察知した瞬間(せつな)に、躰を屈めた。  花に寄り来たる小さな蝶の群れを視たからである。  いや、蝶はただ一点……タケルをめがけて飛んできていた。 (や、こ、これは……!)   膝を地につけたのは、跳躍に向けた備えであった。 (ひゃあ、あれは……蝶ではない……)  洞穴の中で鼻に巻いた布をつけ直したタケルは、蝶の群れと見間違えた理由を知って自重げに微笑みかけた。  それは、生きた蝶々ではなく、枯葉の類だったからである。  ときおり白緑のが混ざっているのは、おそらく笹の葉の近親種であったろうか。それらを自在にあやつる何者かが近くに潜んでいるはずであった。  ところが視界に映るのは平原である。  城壁も塔も何一つない。  空にも散り雲ひとつなく、穹蒼(きゅうそう)()える天がひろびろと拡がっている。  その空も造られたものであるかどうは、実のところタケルにはどうでもいいことだった。けれどをあやつっている人間の気配は、自分の目の高さよりもずっと上方、やや向かって左寄りに(とど)まったままであった。 (なんと、宙に浮いているのか……)  タケルの思念が空回りしていた。  あえて確かめようとしないのは、先刻(さっき)からずっと蝶もどき群に対処する呪文を唱えていたからである……。  蝶たちはタケルに飛びついた……のではない。一寸手前で、停まって、そのまま次々に地に落ちていく。  タケルの唱えた呪の効果であったろう。 「魔物めっ!」  空から怒声が降ってきた。  耳をつんざく高い声である。  やっと顔をあげたタケルは、想定したとおり、宙に浮き停まっている人物を視た。  痩せている……。  身なりは陳宮よりもいい。こぶりの頭冠に(まと)めた髪を納めている。  右腰に短剣を差し、右手には大ぶりの扇を開いていた。  蝶もどきは、その大扇(たいせん)のなかから飛び立っていた……。 「や!……扇と蝶……たしか……」  タケルは思い出した。  陳宮が語っていたはずである。行方不明の奉孝の武器は、大扇と蝶であると……。  タケルが呼びかけようとしたそのとき、短剣を抜いたその人物が、閉じた扇と短剣を十字に交叉させた。と、そのまま太縄のようにからだをたゆませつつ、一気に加速しつつこちらへ向かってきたのだ。 「魔物め! 逃しはしないぞっ」  「え……?」  言葉をかける暇もない。相手の攻撃を受け止めるためタケルは、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をシュッシャァと斜め前方へ突き出した……。
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