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奉 孝
剣はそれ自体が意思を持つことがある。人が剣を選ぶのではなく、剣が遣い手を選ぶのである……。
タケルの対手は、どうやら扇に選ばれた稀有の人物であったようだ。
その人物……かれが交叉させた扇と短剣は……難なく天叢雲剣を受け止めた。有り得べからざることであった。通常ならばそれだけで、そのときタケルの闘気は半減したはずである。
が、予め察していたタケルは、そのままの姿態で跳んだ。
鼻を被っていた布がはらりと落ちて舞った。それが生き物のように対手の顔に巻き付いた。
タケルはずっと呪文を効かせている。
刹那、タケルはくるりと宙で回転し揃えた足裏で対手の腹を強く蹴った。そのまま地に着いて、出方を待った。
するとかれはそのまま落下しつつ、タケルと同じように半回転すると両足で着地した。
間が生まれた。
すかさず、タケルはありったけの声を張り上げた。
「ほ、う、こ、うぉ! 奉孝、やめよ。こちらは敵ではない……魔物なんかじゃないっ……!」
「ん……?」
とはいえ何も言わない、言い返さない。まだタケルのことを魔物の類だと疑っていたのであろう。さきほどの蹴りはタケルなりに手加減したつもりである。本気で倒そうとするなら、足の爪先を対手の腹に突き立てただろう。
闘気に充ちた躰の一部はそれだけで剣に勝る。ましてタケルが呪文とともに蹴ったなら、今頃かれは生きてはいないはずである。
けれどもこちらの配慮は、打撃を受けたばかりの者には斟酌できようはずもなかった。
いまだかれは殺気を消し去ってはおらず、むしろこの一時の休止を反撃の絶好の好機とみていたようだ。
ふたたび立ち上がると、かれは扇を開きはじめた……。
「あ……! 奉孝さん……奉孝さんですね」
「ふん、魔物ごときに名を悟られたとは末代までの不覚……」
「いえ、魔物ではありません」
「ほざくな! 妖術をつかうが何よりの証!」
「や……あ、陳様……陳宮様からお聴きしました。賊を追いかけて行き、そのまま戻らずと……」
「なんと、公台どのが……」
陳宮の字が公台である。
「そうです……蛙になった若者たちを、陳様と一緒に助けたのですよ……」
「蛙になる……だとぉ?」
「あ。いえ……」
一から説明しようとしたタケルは、自分でも経緯の全容を掴めていないのに喋り出したことを悔いた。こういうところにタケルの経験不足の陥穽がある。今まで天叢雲剣と呪文だけに頼り過ぎていたのだ。人との接し方、距離のとり方というものが、まだタケルには身についていない……。
口ごもってまごついているタケルをみて、罠の臭いを感じ取ったのか、かれは中腰になった。迎撃の構えであったろう。
「あ、待ってください。陳様はご無事で、奉孝さんを待っておられます」
「ふん、まだ、要領の得ない話を続けるのか……?」
「いえ……わたしは、この国の者ではありません。東海の蓬莱国……ヤマトから来ました」
こうなれば嘘でもなんでもいい、対手の殺気を鎮めるには、興をそそられることを告げればいい。蓬莱の古伝承をかれが知っているかどうかはどうでもよかった。大志あるものならば、若くても古書に親しんできたはずだと、とっさにタケルは判断したのだ。
「な、なに?」
「わたしは……何も知らないのです……あなたがどこの出身で、どう言えば、信じてもらえるのか……だから、自分のことを述べ立てるほかはありません」
「いま、ヤマトと申したな……何のためにこの国にやってきた?」
突然、かれが訊いてきた。ヤマトということばに関心を持ったのであろう。
「はい……曉山に赴き、やるべきことを為すために……」
これは嘘ではない。タケルにとっての真実である。
「いま、曉山と言ったのか?」
「はい……さようです」
「曉山……」
ふいにかれの殺気が消えた。
どういうわけか〈曉山〉の二字が心を鋭く衝ったようである。
「おれは……」
と、かれがつぶやいた。
「いかにも郭奉孝……」
名乗ったが、郭嘉とは言わない。
奉孝は字で、郭嘉と本名で呼ぶ者は、この世には主君(王、皇帝)と両親、それと目上の親族しかいない……。
奉孝の視線の先は……タケルではなかった。タケルの持つ天叢雲剣であった。
じっと見つめている対象は確かに剣なのだが、奉孝は同時に過去の事象を想起していた。
すでに奉孝は気づいていたのだ。
先刻、鉄扇で相手の剣を受け止めたとき、奉孝は扇が嘶いたその声を躰で聴いたのである。
それは奉孝が初花……初めての月経を迎えたときと同様の衝撃を心で受け止めた、と言い換えてさしつかえあるまい。そのとき、かつて自分が視た光景のなかの断竜斧と少年が、まさに目の前の不審者と重なっていたからこそ、奉孝はすぐには戦いを止めなかった、止められなかったのだ。
相手の器量、剣の腕前というものを確かめたかったことも理由のひとつであった……。
「名は……?」
「和邇タケルです」
「タケルというのは、字なのか?」
「いえ、……わたしの国では、男児は字を持ちません」
「どうしてだ?」
「さあ、よくは知らないのです……名というのは、あくまでも他者と区別するための便宜上のものでしかないからでは?」
「なにぃ! では、問うてやろう。和邇というのが姓ならば、おまえは和邇家の繁栄と長久を願っているのだろう?」
「いいえ」
「ん……?」
「わたしが願っているのは……曉山へ赴き、為すべきことを為さんがことのみ」
「……何を為すというのか?」
「それは言えませぬ。ひとたび口に出せば、霧散してしまいしょうから」
……これが初対面でのふたりの短いやりとりだった。
互いに訊き糺したいこと、喋りたいことは山のようにあったはずなのだが、この緊迫した場ではそれは叶うはずもなかった。
共通の敵がすぐそこまで来ているのだ……。
「さらわれた女子供たちは?」
奉孝が見つかった以上、残りの気がかりはそのことである。タケルは、まず、そのことを確認した。
「大方は、それぞれの住まいへ逃した。残りは十人ほど……」
「それは……どこにいるのでしょう」
「分からないから追い続けていた……すると突然、花畑に来た……そこでおまえを見つけた」
「なるほど……でも、奉孝さんは、花が放つ毒気にはどうやら免疫があるようですね」
「ふん、それはこちらが言いたい。おまえ……タケルにも毒は効かないとみたぞ」
「いえ、かなり思念が乱されています。華陀様が調合してくださった薬丸を飲んでいますので、かろうじて持ちこたえているだけなのです」
答えながらタケルは、その薬玉を小分けして布にくるんで奉孝に差し出した。すんなりと受け取った奉孝は、そのまま懐のなかに納めた。
「礼をいう……いつか誰かに使わせてもらおう。おれは幼少の頃から毒を飲まされてきたんだ。おまえが見抜いたように、種々の毒物への耐性をつけるためだ」
そこで一旦口を閉じた奉孝は、吐息とともに懇願の弁を続けた。
「おまえ……タケルは、すでに、このおれが女だと気づいているはずだ……だが、公台どのにはどうか内密にしてもらいたい。誰にも告げないで欲しいのだが……」
奉孝の口調は懇願なのだが威圧的ですらあった。どうやら、丈夫としてふるまっているのは、ただの男装趣味でも防御擬態でもなく、より根源的ななにか……つまりは、男であらねばならない複雑な事情というものがありそうであった。
タケルは、そのあたりの勘が鋭い。
いや、一種の先行感得力とでも呼べるものなのかもしれない。
「分かっておりますとも。誓って、誰にも明かしません」
淡々と返辞をしたタケルを、奉孝は奇妙な目で眺めている。
なぜ、と問い返さず、秘密にすることがさも当然であるかのごとくふるまっている目の前の異国人は、やはり、奉孝にとってはそれなりに観察しがいのある対象であった。
「秘密にしてくれるのならば、三つ、タケルの願いをきいてやる……」
……そんなことまで奉孝は言うのである。
「だが、今ではない……」
そうとも言った。
当然であったろう。敵を追わねばならない。いささか悠長な会話にみえるのは、互いがそれぞれに消費した闘気を癒やし、傷ついた躰をほんの束の間であっても休める必要があったからだ。
ちなみに、奉孝は、〈三つの願い〉と言ったが、〈三〉の字は古来よりこの大陸で特に好まれてきた字である。
秘字、といってよい。
いや、神字と言い換えてもさしつかえあるまい。
〈一〉が三本、平行に並んで、〈三〉の文字になる。それぞれの〈一〉は、上から順に、天、地、人……を現している。
その三つの〈一〉を縦に貫く至高の存在こそ、すなわち〈王〉なのである。
天と地に誓う……という意味合いをもたせて、奉孝はタケルに誓約したことになる。それだけ重いものであることは、おのずとタケルにも伝わっていた。
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