36人が本棚に入れています
本棚に追加
協 働
「さ、少しは……からだも休まっただろ……では、参るぞ」
言った奉孝は空を見ている。
「どうかしましたか?」
「……散り雲ひとつない空は、おれはどうも好きにはなれない」
奉孝がつぶやく。
そして、そのままぴょんと跳ねて、花畑を踏み荒らして駆けていく……。
(いや……足を着ける位置を選んで、またいでいるんだ……)
と、タケルは黙したまま、奉孝のやり方を倣った。
「ここを抜けると小高い丘があって、三層の塔がある……」
「塔?」
と、タケルが訊き返した。
「すでに入り口は確かめた。敵と戦って、しばしその手当に戻ったら、タケルの姿をみて、並々ならぬ妖気を感じ、勘違いした……おれが不覚をとってしまったのさ……」
「で、では、傷を負ったままで、わたしと剣を交えたのですか!」
「ああ」
「傷を診てみましょう」
「おまえは神医に弟子入りでもしたのか?」
「いえ……天叢雲剣の癒やしの力で……一時しのぎにはなります」
「なるほど……それが真の断竜斧ならば、治せるかもしれん」
岩場に出てから、奉孝は立ち止まると、そのまま腰を下ろした。肩から腹にかけ網目状の衣をまとっていたのを、自ら脱ぐと、いきなり胸元を押し広げた。ふくらみかけた右の乳房の下と脇の肉が破裂したように剥れていた。血止めと応急の軟膏を塗っていたらしく、その異臭がタケルの鼻にまとわりついた。
「やるなら、早くしろ……」
別段恥ずかしがるふうでもなく、淡々と奉孝が言った。
小さな蕾のような乳首のまわりも乾いた血糊が残っていて、一瞬、タケルは戸惑ったが、すぐに剣を抜いた。
諸刃である。
切っ先ではなく、中ほどの平らかな部分を奉孝の傷口にあてた。
目を閉じたまま呪を唱え出したタケルの顔には、やはり、かつて奉孝が視たあの少年の面影が色濃く残っていた。
「あ」
小さな声を上げたのは奉孝である。
見る間に、穹蒼色の空がそこに落ちてきたようなざわめきを、たしかに奉孝は視た、感じた……。
タケルが剣を納めると、奉孝の傷は跡形もなく掻き消えていた。血糊の残滓だけが肌の色を変えていて、それをみたタケルは急に胸が高鳴るのを感じた。
こころがざわついたのタケルだけではなかった。
傷が無くなった途端、奉孝は初めて羞恥を覚えたのか、慌てて胸元を手のひらで覆い隠した……。
奉孝とタケルは何も言わない、聴かない、喋らない。
決して気まずいのではなく、塔への潜入の段取りをそれぞれに思案している……。
(……また洞穴があれば、かなわないなあ)
どうやらタケルは穴ぐら恐怖症にでもなりそうで、考えるだけであまりいい気持ちはしない。こればかりは天叢雲剣でも、その洞穴ごと消し去ることは叶うまい。
「二手に分かれるか……」
タケルの側で奉孝は突入後の算段をしているようである。
「え? 分かれる?」
不満気にタケルが言った。
「そのほうが効率がいい」
奉孝はあっさりと言い捨てる。たとえタケルに第三者に知られたくはない秘密を握られていたとしても、敵を前にして斟酌することではない。タケルを嫌ったのではなく、効率を優先させた奉孝なりの判断だった。
「どうした? 二手に分かれて危険を分散させるのは、常道というものだぞ!」
奉孝がいう。
「でも……奉孝さんは疲れが溜まり過ぎのようにみえます」
「あ、さんづけは止めよ! お互い、歳もそう変わらないようだし。遠慮深げな敬語など無用」
「あ、わかりました……いや、わかった」
「塔には地下はないようだ。螺旋状の階段がある……それを一気に駆け上がるものと、各階ごとの様子を探るものに分かれるべきだ」
「あ、地下が……ないのなら、二手に分かれるのに同意です」
「なんだぁ? おまえは地下が苦手なのか」
「ええ、できれば、もう勘弁願いたいものです。奉孝さんは……あ、奉孝は、どっちを?」
「おれは、一気に駆け上る……」
「では、こちらは各階を見て回ります」
なんとか道筋はできた。
すると奉孝が、輪のような飾り物をタケルに差し出した。
手首につける腕輪であったろう。
「おれも同じものをつけている……はぐれても、居場所がわかる。捜し出してやるから……」
素材まではタケルには判らないが、金か銅か、それとも隕鉄の類であったろうか。
軽くはなく、ずしりと重みが伝わってくる。
けれどもタケルには、その輪が邪気を含まないどころか、闘気の源泉のようなものを放っていることを瞬時に感得していた。
そのような貴重なもの、人によっては宝器と呼んでもさしつかえないほどの品を、なんの見返りもなく差し出した奉孝の善意に、タケルは深く謝した。
左手首につけると、すぐにタケルは、うーんと唸った。
「ん……? こちらが奉孝を捜すときはどうすれば?」
「無用! そんな事態になったとすれば、すでに、われらは二人とも死んでいる……」
「ええっ? では、これを首に巻いてください」
タケルが差し出したのは、陽巫女から授かった強力な護符縄である。
「な、なんだ、この粗末な汚らしい紐は……?」
露骨に嫌がった奉孝は、眉間をざわつかせた。
「わたしの主から頂戴した護符のようたものです。きっと奉孝を護ってくれるはず」
「主? 護符?」
「見栄えより、中身の濃さと申しますからね。どうか嫌がらずに……」
「ま、交換と思えばいいか」
「そうですね。さらわれた残りの女子供も、この塔にいるのなら、逃げ道も確保しなければ……」
「中には居ない」
「え?」
「いるのなら、とっくに、おれが乗り込んでいるさ」
「あ」
「一度、この塔に入って、再び、連れていかれたんだ。追おうとしたら、道衣をまとった長髭の男が現れ、手下どもは一斉に土下座して迎えた……おそらく奴が、賊の首魁なのだろう」
「その人物が……この塔の中に?」
タケルが確認すると、奉孝は頷いた。
首魁らしい人物の配下の者はほとんどは居ないことを、奉孝はすでに確かめていた。しかも、賊の手下どもは一様に頭に黄色の布を巻いていた。あるいは、すっぽりと頭髪をくるんでいた者もいたはずである。そのことをタケルに伝えた。
「黄ですか……なにか意味があるのかなあ。あ、奉孝は、空を翔ける白馬を見たことは?」
「空を翔ける? タケル、おまえの言うことはコロコロと変わって、要領がつかめないぞ」
「そうかなあ」
「話がまったく噛み合わない」
奉孝が嫌味で言ったのではないことはタケルにも伝わってくる。少しずつ、タケルは奉孝との会話のときの語句の選び方というものを学びつつあった。どうやら奉孝は、まどろっこしい理屈づけであるとか、くどくどした説明よりも、ずはりと本質を突いた短い詞章を好むようである。
「では、行くとしよう」
奉孝が告げるよりも早く、タケルは右手に剣を、左手に火を灯した箒を持ってすでに身構えている……。
最初のコメントを投稿しよう!